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お天道様が見ている、という感覚

今日、職場の人からこんな話をされた。

「怠けるとか人に嫌なことをするっていうことは私には出来ない。お天道様が見ている、と思うと悪いことは出来ないよね」

僕はこの考え方に大いに共感した。僕は何かしら神様を信じているわけではないが、遥か高いところから何か"大きな存在"が自分を見ている、という感覚で生きている。たとえ、その場に自分1人しかいなくても、その行動は全て"大きな存在"から見られている、と思っている。

お天道様、とは神や仏のように思われるが、一般的には太陽のことを指すそうだ。太陽からは全てが見えている。そう考えて生きていると、自然と日常の言動に注意を払うようになる。

日本は、宗教教育があまりなされない国だ。外国の文化から見れば、宗教が根付いていないのに日本人はどうやって道徳観・倫理観を身につけるのか?と疑問を持たれており、それを説明したのが新渡戸稲造の著書「武士道」であった。
しかし、僕は本書を読んでも何も納得が出来ない。なぜなら、今の日本に「武士道」など無いからだ。
無理にこれから宗教を復活させる必要はないが、宗教もなく武士道も消え去った日本で、道徳観・倫理観を持つには、この「お天道様は見ている」という感覚を子どもたちに教育するしかないのではないだろうか?

常に誰かが見ている、というのは、言いかえれば自分のことを客観的に見ることである。客観的にみる、というと「他人の目からどう見えるか」という文脈で使われがちだが、それだとその場における他人の存在が必要となる。真の客観視とはもう1人の自分が自分を見る、ということになると思うのだ。遥か上から見ている誰か、というのは他ならぬ自分である。

自分を俯瞰で見た時に、それは悪い行為ではないか?恥ずかしい行為ではないか?誤った行為ではないか?
常にその感覚・意識で生きていたいと僕は思う。

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