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2-11 学芸大学あるある 全般的に


東京学芸大学に在学中に感じたことなどを綴っています。

前回は 


ここでは在学中の学芸大学あるあるを述べます。


厳しい進級制度


 2年生から3年生になる時点で、最低取得単位(確か62単位?)を取得出来ないと専門に上がれないのは、他の大学でも似た様な事があると思いますが、学芸大学の変わった所は、本来の在学年数の4年プラス2年までしか留年が認められず、例えば、4年目に専門に上がった場合、専門の2年間で卒業しなければならないという、最高6年しか在学できないシステムだった事です。

 2年ダブったら残された時間は2年のみ、頑張って残りの単位を取っても2年はきつかったようで、たった数単位を取れなかったばかりに、あえなく退学になった学生も数知れず。

 水泳必須といい在学期間の短さといい、当時は何気にスパルタ教育を地で行ってました。まあ、元師範学校ですからね(笑)。

 流石に、今はどちらも緩和されていると思います。よね?

 

語学が苦手な学生が多い


 個別入試が、専門とする教科のみで英語の試験のない、所謂一芸入試だった科が多かった弊害です。

 個別入試の難易度は、その教科だけは東京大学などの難関大学に匹敵する難しさで、自分の受けた政治経済の入試問題は、今考えると大学院入試に負けず劣らずの難易度でした。

 で、そんな入試をくぐり抜けて来た猛者は、専門教科に全力投球して語学を疎かにした因果で、入学後に語学に苦しむのです。なにせ相手の英語科の語学教員は百戦練磨の教員ばかりでしたので。

 どの語学科目も苦労しました。本当に。講義にちゃんと出ていたにも関わらず落とされた科目も数知れず。翌年必死に予習復習して講義に挑んだのにC(他の大学の可に匹敵)しか取れないほどのきびしさ。

 そんな科目の多い中、2年生の時に受けた柴田元幸先生の講義は、難しい語学を少しですが面白く感じるきっかけを与えてくれた講義として、強く印象に残っています。

 流石、かの村上春樹と親交のある翻訳者だけあって、英語の翻訳に自由な発想を認め、翻訳の厳密さより、文学作品としての翻訳の意味付けや、作品のツボを抑えた自然な翻訳の方法を教えていただきました。

 私などの素っ頓狂な訳文でも、肯定から入って、その上でより良い訳文を提示するとをいったスタイルの講義で、語学に対する苦手意識を和らげた、とても有意義な講義でした。

 現在は大学を辞められて、作家兼翻訳家としてご活躍されています。ご存知の方も多いのでは?

 

ドラえもん(門)があった


 構内の裏手に、かってドラえもん(門)と呼ばれる24時間出入り自由な門が存在しました。正門が閉鎖された後の、遅く帰る時などは重宝しましたが、構内の警備が強化された4年生の頃に閉鎖されてしまいました。


サークル棟は元兵舎

 

 もともと小金井地区の構内は、旧陸軍研究所の敷地に移転して出来た事もあって、最初は兵舎で講義をしていたそうです。私の在学時は流石に立派な建物が増えていましたが、サークル棟はまだ兵舎のままでした。

 陸軍時代の名残は他にもいろいろあって、プールの側にないのにプール門と呼ばれた門は、陸軍が研究用に使っていたプールが側にあったのでプール門と呼ばれていたと聞いています。

 地下に張り巡らされた防空壕を探検した話や陸軍時代の幽霊が出るなどの怖い話もありましたが、これ以上の詳細は私も怖くなるので割愛させていただきます。


生協のランチが階級化していた(笑)


 当時、生協の食堂のランチはA、Bと分かれていて、特にAランチは200円で食べれるという貧乏な学生御用達のメニューでした。よく友人と昼食に行くと、300円位だったBランチを注文をすると「ブルジョアランチ」とからかわれたものでした。どちらも市場価格からするとかなり安かったんですけどね。


まだまだ続きます。

次回は





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