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2-6 そもそも学芸大学とは?

東京学芸大学に在学中に感じたことなどを綴っています。

前回は

 そもそも大阪や京都などには教育大学があるのに、東京だけ教育大学ではなく学芸大学に教育学部があるのか、疑問に思っている方もあるかと思います。

 ざっくり云うと、「今の国立大学の惨状は怨霊のせい?」でも書きましたように、別に東京教育大学が過去に存在したからです。もし改名するとしたら第弐東京教育大学とか新東京教育大学という、エヴァンゲリオンの世界での大学の名前みたいになるのでしょうか? それはそれで面白いかもしれませんが。

 閉学してもなお、東京教育大学の存在の偉大さが改名出来ない原因の一つではあると思います。ただ、それ以外にも、積極的な意味で、国立大学としては唯一の学芸大学を名乗るアイデンティティが、改名する必要を無くしている点も挙げられます。

 過去には全国に学芸大学、学芸学部が有りました。それは戦後の教育改革と密接に結び付いています。

 戦前の教員養成は、師範学校という教員になる事を目的として造られた学校で行われていました。軍人を養成する陸軍士官学校や海軍兵学校などの軍学校と同列に扱われる特別な学校群で、戦後軍学校が事実上廃止された様に、師範学校もそのままの形では存在することが出来なくなりました。

 戦後の教育改革では、戦前の軍国主義に荷担した師範教育への反省から、教員養成は、大学で教職課程を受講すれば、どの大学でも取得出来る開放制を基本とする事になりました。

 師範学校は生き残る為に、新しい時代の教員として必須の、教養教育とも訳される英語で云うリベラルアーツの大学に変化する事が求められました。そして、リベラルアーツの和訳として学芸が当てられ、全国の師範学校が学芸大学、学芸学部に改組されました。これが学芸大学、学芸学部が出来た発端です。 

 教養を深める大学こそ学芸大学の本質だったのです。この辺りの内実については改めて詳しく述べたいと思います。

 理念は立派な学芸大学、学芸学部だったのですが、後年教員養成の制度自体が変更を繰り返す度に、実質的に教員養成のみの学部に変容し、昭和40年代に殆どの大学、学部が教育大学、教育学部に名を変えました。そして、唯一残ったのが当時東京教育大学があったために改名出来なかった東京学芸大学だったのです。

 本来だったら、ここで東京教育大学と協議をして、新たな東京教育大学を造れば良かったのではと考えますが、実際にはそう云う話にはならず、学芸大学は独立したまま、リベラルアーツの大学としての理念を貫く事になります。そして、内紛によって相手の東京教育大学が閉学して、東京学芸大学だけが残り、全国唯一の国立学芸大学となったのが真相です。

 同じ様な背景を持っていた広島大学では、高等師範学校を前身とする教育学部と師範学校を前身とする学校教育学部が近年統合して、新たな教育学部となりましたが、東京教育大学と東京学芸大学の事例と比較すると対照的です。教育学部をめぐる似たような話としては、東北大学から宮城教育大学が分離した事例もありますので、近々に取り上げたいと思います。

 国立唯一の学芸大学、リベラルアーツの理念を一貫して貫いたその伝統は、これからも残して欲しいものです。

次回は



 


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