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元は私立学校?な大学 その1

 今の国立大学の中には、元々私立学校として創立された大学がいくつかあります。今回から元は私立学校?な大学について紹介していきます。

元は私塾?な大阪大学

 元は私立学校?の横綱として、大阪大学のルーツである適塾を挙げないわけにはいきません。

 緒方洪庵の私塾であった適塾は、慶應義塾の創立者である福沢諭吉を始め、幕末から明治に活躍する多くの偉人を輩出しています。大阪大学の公式HPでは、以下の様に適塾との関連が述べられています。

 明治2年(1869) 3月大阪府が大福寺(東区上本町4丁目)に仮病院・医学校を設立した際、洪庵の嗣子緒方惟準、義弟郁蔵、養子拙斎らがこれに参加。この医学校は、後に幾多の変遷を経て現在の大阪大学医学部となる。

 適塾の直系である事は間違いないようです。実は医学校としての適塾の後身は、明治初期に政府直轄と府の管轄の間を行ったり来たりした期間があるのですが、そこには突っ込まない事にしておきます。

 これ以外にも、大阪の経済力を背景に、民間の力で成長した大学である事が年表からも分かります。

 医学校については、大阪だけでなく他の府県でも設立が続きますが、大阪の適塾ほどの優秀な人材を揃えられる学校は僅かでした。

 明治20年に国家財政の悪化に伴い、医学校を府県の財政で維持する事を禁じられてからは、病院収入だけで維持する事が出来ない多くの県立医学校は廃校となりました。運よく政府直轄となった数校を除いて、残った府県立医学校は大阪、京都、愛知の三校だけとなります。

 その後医師法の改正で、旧制専門学校以上の高等教育機関でしか医師の養成が出来なくなった為に、大阪府立医学校は旧制専門学校の大阪府立高等医学校となりました。大正8年には帝国大学以外の大学の設置が認められた、大学令という法律に基づいて、大阪府立医科大学に昇格します。その後、

 当時、東京をしのぐ大都市であった大阪に「総合大学を」という声が民間からあがりました。当時の大阪府立医科大学長の楠本長三郎(第2代総長)や大阪府知事柴田善三郎を始め、関西財界や府民の熱意ある活動の末、悲願の「大阪帝国大学」が誕生したのです。大阪帝国大学は、帝国大学でありながら民間の意思と財源により創設された帝国大学でした 。

と公式HPでは設立の経緯を纏めています。まあ、流石大阪、個性的な大学である事をこれでもかという位アピールしてきます。

常に向上指向の大阪大学

 年表を見ても分かりますが、近隣の旧制大阪工業大学を工学部として取り込むなど、戦前の時点でも積極的に拡大しています。戦後の高等教育制度になってからでも、平成19年に大阪外国語大学と対等合併して外国語学部としているなど、今後も他の大学を巻き込んで、更に巨大大学化する可能性を秘めています。元が私塾なだけに、慣例に拘らない柔軟性を持っている様です。

 一私塾を源流に置き、公立から国立へ、旧制専門学校から旧制大学、そして帝国大学という当時最上位の高等教育機関まで駆け上がった大学は他にはありません。国内で東京大学、京都大学に続く位置を争う大阪大学は、意外にも、出自が一私塾である庶民性を持った大学であるのです。元は私立学校?な国立大学の横綱級大学として、先ず最初に紹介しました。

次回は









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