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みえない臓器になる(偽日記25)

深夜にカップラーメンを食べた。ゆず塩味。寝る前に、ああきょうなにも食べてないと気づいて、そうおもうと、なんだか妙に腹が減って、いろんな欲望がきゅうに立体的になって、磨りガラスみたいだった視界が短期的にぴんと澄みわたり、だから、からだを起こしてコンビニで買ってきて食べた。太るかも、とおもいながら啜る。深夜にカップラーメンなんて、いつぶりなんだろう。太ってみようか、とおもう。太ってみたらいい。じぶんの骨のかたちが、芯のようなものが、ぼやけてわからなくなるまで太ってみたらいい。いままでとまったく別のからだで生きてみる時間があってもいいじゃないか、とか。でもカップラーメンもそう安くはない。財布が無理ですねと青白いくちで、薄い紙幣の舌でいう。まいにち間食なんてしていたら、基盤の3食が食べられなくなるのだから、そうすると間食が本来の食事になるだけで、間食なんて贅沢な言葉が生活に入り込む隙間なんてなくなる。

朝が近い。
アパートの部屋にはカーテンがかけられないタイプの長方形の窓があって、どうしたって朝になったらそこから陽が這入り込んでくる。ベッドまでの距離を、確実に、ゆっくりと伝ってきて、定められた時間に、そのベッドで寝ている私の顔に手をかける。朝も夜も嫌いだ、と書いてみる。昼は?嫌いだ。だとすれば、ぜんぶ好きじゃないから嫌いでもないってことだろうか月並みに。違う。では隙間の時間にだけ、単語で言い表せない空模様だけにやすらぐ俺か?違う。なにもわからない。でも、実はあらゆることに大した嫌悪も抱けない、なんの情緒もないくせにありそうなふりをして言葉で遊んでいること自体が、あたまの、私の、本質なのかも。違う。本質、なんてそんな大袈裟なことを、目玉がからだのなかにあるわけでもないのだからわかりようもない。だからなにもかもが遠い。


「なにもかもが遠い」といま書いて、なにがどれ/誰から遠いんだろう、とおもう。なにもかも、とか、あらゆる、とか、ぼんやりと広い、つかみようのない語彙を、ふつうにあたまのなかで、生活のなかでその手捌きのなかで使いすぎていて、もはや意味を喪失している。

記憶。
書いたけど公開しなかった日記。


【一人称でげろげろだ。
いつも。
ゲームでだ。ゲームで一人称視点だとげろげろなわたしだ。
三半規管が弱い、とても弱いので、わたしの三半規管はきっと変。な、形をしている。はず、なので、耳に指を突っ込んで……わたしの指、とても長い指、いまにもあなたのつむじを気づかれずに触れるくらい、長くて幽かな指です……取り出す。
生まれたての仔牛のよう。三半規管。わたしの。もうすこし頑張れないのか、わたしの、三半規管よ、ねえ。というまに部屋の隅へいってしまったので、わたしは酔わないように2Dドットで処理していくしかなくなるわけだ。こないだ友達と通話してて、むかしやって途中でなぜか投げたゲームのことをおもいだして、スイッチに移植されていたので、買って、スマホのカメラで友達に映像を繋ぎつつプレイした。『バロック』というゲームだ。首の長い人やツノが生えててこちらのこころを読んで口にする人がでてくる。天使銃を上級天使がくれる。塔を降る。心臓や骨を齧ったり投げたりすると有利。偽物の羽もつけるといい。塔を降るのだ。一人称視点だ。天使銃は5発しかない。補填もできない。でも強い。異形をいっぱつで倒せる。でも倒すのではなく浄化だ。異形はもともと人間だった。可哀想に。でも、いちばん可哀想なのは酔いまくり吐き気と闘うわたしだ。わたしはわたしのからだしかみえない、とても身勝手な人間なので、つまり酔っているわたしはとても可哀想なのである。『バロック』には、いろんな妄想に執着する元人間がでてくる。箱のなかに娘がいると思い込んでいるが開けられずにいる父親に箱を投げると、他の箱をくれる。寄生虫もいっぱいいるので、剣とかに取り憑かせると便利であるということがプレイしていくとわかるので素晴らしい。でも、やはり一人称なので、げろげろなのである。残念。二時間のプレイが限界であった。

でも小説は一人称が好きだ。なんでかは知っている。読むのも書くのも。好きだ。三人称は書いたことがない。その三人称をする意味がないならそう書く/語る必要がないのだし、一人称だって二人称だってそうだ。でも実はようやく三人称で書いたほうがいいのがあったので、いまやっている。どこかに応募とかはしない。たぶん誰にもみせない。なんかもうそういうものでいいんじゃないか。自家中毒に一度なってみようとおもう。

生活は? 一人称か。得意でない気がする。わたしは信用ならない語り手としてわたしに今現在を伝え、とても怠惰で困る。過去もだ。寝るのを区切りに、きのうのわたしがきょうのわたしとまったく合致しない日も多い。日めくりカレンダーのようだ。ベッドに寝ころぶと、めくられて破られた1週間前や1ヶ月前や1年前のわたしがふわふわと浮かんでいる。遠ければ遠いほど幽かだ。日めくりのわたしのことなど、しかしわたしはどうともおもえない。でもそれはよくないので、2Dドットみたいに揺るぎなく簡単でいてくれたらいいぜんぶ。酔わないでわたしの目に簡潔に映ってくれたらいい。電柱や星や法律や銀行残高や気温や悲しい友達やもう会えない人や、そしておまえも。】

誰?とおもう、読んで。まいにちまいにち、明日が、昨日が薄いのは、かなりむかしからだ。まだ関節が軟体の蛸のようだった、ソプラノっぽい声の、子供のときから。カレンダー的じぶん。なにも信用ならない。おもいだせない。だから日記を書いているのかもしれない、偽物の日記を、偽物であるということで日記という形式が孕むものを回避したような気でいながら、でもだからって日記はむしろ本来のじぶんとは絶対に、その、書いているときでさえズレている、いまと大きくズレているのだから、それを偽物として書いておくことがどんな運動なのかよくわかってないままでも、いつかわかるか考えるときがあるはずの勘でやっている、と条件づけているいま、いまこの時間、花の匂いがする、きのうもらったのだ、花、机のうえの花、花を買ったことがない不思議、花屋はたくさんあるのに、ペットボトルにいけてある、花、なんの花か名前も忘れている。あしたおもいだすかもしれないし、一年後おもいだして、そのとき、きのうの俺が蘇る? 蘇らない絶対に。そっくりなだけで。しかもどうせ慈しむのだ。そんなに好きでもなかった親族の死後数百日目とかで、いいようにしか記憶を再生できなくなるのとおなじで、いつの日か破り捨てられた自己を、なにかの、もの/音楽/味/匂い/ひとのこえとか、そういった鏡の反射で、おもいおこされた記憶を、すこしずれた鏡像を、なんだか愛おしくおもってしまうのだろう。というあたりまえすぎる実感も、またおなじように私を巣食ったまま、からだのなかで、忘れられた、みえない臓器としてひっそり息づいたまま、そのまま、ずっと生活してしまう。

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