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第二回かぐやSFコンテストの所感とか

以下文は、いちおう、作者名と結果発表前に書いています。
私はふつうにどうかしているので、一万文字程度あります。
どうかしている方は、どうかお付き合いください。

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「まえがき」

「かぐやSFコンテスト」(https://virtualgorillaplus.com/kaguya-sf-contest/2nd-kaguya-sf-contest/)というSF掌編の小説賞があり、それの第2回最終候補作のひとつに選出頂きました。
広告代理店での勤務を経てさいきん無職になり、無職になったので今までボロ雑巾のように働いていた分を巻き戻そうとおもい久々に小説を書き出しました。投稿作はその一作目です。無職期のすべりだしとして良い体験をさせて頂きました、ありがとうございます。

普段は広義的な意味での純文学(リアリズムは難しくて書けないけど)を書いている気でいるので、SFの賞に出してみるのはすこし挑戦だった。最終候補の連絡をいただいたとき、嬉しさといっしょに、今回書いた自作の程度もよくわかっていたので、不安から酒を飲んだおりビール瓶から吹きこぼれる声に唆される形で辞退も考えたけれど、私から私の自作への評価は私の承認欲求や欲望にあっさり折られ、最終候補作として小説が発表され多くの人の目に晒される形となりました。

最終候補として選出されてから、「SF?知ってますけど」顔をすべく積んでいたジョン・クロウリーとカート・ウォネガットを急いで読み出したが、必修科目はそれ以上に多くあることは明白で、30秒ほどで諦めて普通に楽しく読書をするだけに留まった。あとスターウォーズep.1をみた。小学生から数えて10回以上はみたのではないだろうか。ep.2以降は一回もみたことがない。私はあんなに可愛いアナキン・スカイウォーカーがダースベーダーなるゴキブリ甲冑野郎に進化する、という嘘をよく吹き込まれるが信じていない。嘘つきばかりだ、この世界は。私も含めて。

ちなみに、この文章を書いている際は結果がどうなっているのかはまったくわからない。が、ぶっちゃけ昨日段階では「ま、選ばれようが選ばれなかろうがどうでもいいっすね」という顔を自室でそわそわしながら五時間くらいしていたわけだが、欲しい本をいくつか見つけたため、いまは図書カード3万円分が欲しくて堪らず(大した信仰心もないのに)近所に数件立ち並ぶ寺や神社に一円ずつ放り込み神仏混合願掛けをするかガチで迷っていたりする。友人に天才ハッカーがいたら迷うことなくGoogle社をクラッキングしてGoogleフォーム内の自作の票数を5,000,000,000,000,000票ほど増やして頂き、人類および他銀河系の知的生命体からも大人気であるという疑いようもない完璧な工作を施すところだが、非常に残念ながらそんな友人はいない。いたら紹介してほしいし、もしあなたがそうなら連絡をください。ブラッティマンデーごっこに興じませんか?

「投票した作品について」

最終候補10作は文芸作品としてそれぞれ性質が異なり、初読は一気に読んだことでどれが自分の好みなのか混乱してしまった。ので、とりあえずそれぞれを5回ずつくらい読んでさらなる混乱に踏み込むことになった。どういう読み(評価指標)で票を投じるかも迷ったが、結果感覚で選びそれをあとで言語化することにした。勘で選んだという意味とはすこし違うが、読後のまだ明瞭には言語化しえない体感を信じた上で、その起伏の大きいものを選んだ。
「SFとしてどうか」「未来の色彩」というテーマに沿っているか、はそこまで(重くは)考えなかったかもしれない。SFがSF(science fiction)なのかSF(speculative Fiction)なのか、はたまたSF(superfree fiction)なのかとか。未来の色彩は「色/視覚情報としての色」を描くべきなのか、「特定のものの様子や傾向」を描くべきなのか、とか。は投票においては読んだ人/審査においては運営の方がそれぞれ指針を持てばいいし、個人的にはあまりテーマに沿っているように読めなくても(一回の読みや解説なしで理解できずとも)抜群に面白ければ投票していいんじゃないかな、とおもう。テーマに沿って審査せよ、とはいわれていないから、というのは若干反感を喰らうかもしれませんが、私としてはまったく構いません。

上記の意での"感覚"で選んだ結果、「スウィーティーパイ」「七夕」「アザラシの子どもは生まれてから三日間へその緒をつけたまま泳ぐ」の三作で再度悩むことになり、それとは別に図書カード欲しさで自作に1万票いれるか迷ったが、熟考(10分)のうえ「スウィーティーパイ」に票を投じました。せっかくなので下記に理由をざっくり書いてみようとおもう。

「投票した作品について/感想」

1.架空世界の構築と高いリーダビリティ
スウィーティーパイ、素晴らしい小説だった。
宇宙人(?)のような架空の生命体の文明を(たぶん)ゼロから構築しながら、物語の進行を停滞させずに描写し、かつこれほどのリーダビリティを保っている小説、というのはあまり読んだことがない(SF系読書不足もあるかもしれないけど)。が、そこだけで選んだわけではなく、投票した理由はどちらかというと本作の構造に素晴らしさを感じたからだ。
私はこの小説を「ニァグとヘンリー・ダーカーによる子作り/異種交配」という側面を強く読んだ。そう読んだとき立ち現れる構造とその手つきに惚れたから投票した、と書きながら、私自身が理解していくのをいま現在進行でキーボードを打ちながら感じる。

2.創作欲の再燃と、異種間の子作り

種族の生殖方法(というか単一生殖の卵の羽化)として「絵(芸術)」が重要視/ほぼ必須とされる世界のなかで、卵の健全な羽化のために重要視される卵胞絵師のひとりニァグはスランプに陥り、色彩感覚を拡張する禁忌に手を染めたあげく失敗。むしろ色彩感覚は下降し、誰かの視線を感じるという不確かな副作用まで併発してしまう、ありていに言えばスランプに陥る。そんななか前地代(粘菌との共生していた時代)の遺物である壺が割れ、その壺が他宇宙へ視覚的にアクセスできることが発見され、ニァグはこれを覗き見るようになる。そこでヘンリーという別宇宙の個体生命を発見し、彼を追うようになる。作中の描写や言動、タイトルから彼がアウトサイダー・アーティストの雄「ヘンリー・ダーガー」であることは、察せざるをえないような描かれ方をしている。つまりそう読むように十分配慮して著述されているのは間違いないだろう。

「ヘンリー・ダーガー」が登場したことに対して肯定的な反応もあれば、否定的な反応も見受けられるし、登場する人物が「ヘンリー・ダーガー」であることに必然性があるのか、という意見も見かけたが、私個人としては大いにアリだし、なにより「ヘンリー・ダーガー」でないと成り立たない要素、カタルシスがあるとおもう。

この壺の中の宇宙は、まるで極彩色の火花のようだったが、そこにおいてヘンリーの作品はとりわけ稠密な爆発と言える。ふと気付けば、ニァグの消し炭になりかけた画業への情熱が再燃していた。
ありがとう、ヘンリー。わたしは滅紫色の淵から這い上がった。君の手を掴んで。
ニァグは、いつしかヘンリーの心と記憶とに触れていた。

ーーーーー『スウィーティーパイ』本文中より引用(https://virtualgorillaplus.com/stories/suwiithiipai/)

上記の描写だけに限らないが、ニァグはヘンリーの創作物や創作姿勢、ヘンリーの心と記憶に触れ、情熱を再燃させている。つまり生殖能力の回復である。まずこれが本作中で「ヘンリーからニァグ」へもたらされたものである。

それと同時に、

「ツイスターの向こうへ、もっとずっと遠くへ、ぼくを連れていってくれないか。それともぼくの少女を。ここはひどい場所だ。まったくいやになる‥‥おお、神よ、また天気予報が外れてる!」
気象に敏感な老人の独り言は、独り言らしく、誰にも聞き咎められない。ブツブツと唸る老人に安逸を与えてやるため、ニァグは壺の中から出た。舞い戻った収蔵室の質感は、やはり錆青磁色に乾いている。あの視線はもう感じない。頭部のコネクターをもぎ取るように外し、背中を振り返ると、そこにはひとつの卵があった。壺の中を旅しながら、知らぬうちに産み落としたものだろう。交配を必要としない単為生殖が可能なのは、周囲に他性のいない環境、それも乾期に限られるものだったが、生の営みにはいつだって例外がある。
「ようこそ渦の中心へ。かわいい子よ。怖がらないで。ここはそんなに悪い場所じゃない。さて随分と休んだ。そろそろ仕事を再開しないと」

ーーーーー『スウィーティーパイ』本文中より引用(https://virtualgorillaplus.com/stories/suwiithiipai/)

ヘンリーによって回復したニァグが通常ではありえない状態で卵を産んでいることが示唆されている。また、前後のヘンリーおよびニァグの会話から、その特殊な〈例外的な生の営み〉から生まれた卵はヘンリーの世界から連れ出されたように読める。交差する視線のなかでの、視覚/色覚のなかでの、次元も宇宙も超越したニァグとヘンリーの子作り/異種交配として私は読んだし、誤読だとしてもそう読みうると私はおもう。

3.階層のあるカタルシス

ヘンリーの子(もしくは彼の写し身)は、ニァグの奏でる色彩のなかで架空の宇宙である世界に連れ出される。それがヘンリー自身なのか、それとも彼の少女(ヴィヴィアンガールズ)なのかはわからないが、とにかくその命は小説世界(架空の/別宇宙)のなかで生を受ける。作中でもしっかり触れられているが史実上「ヘンリー・ダーガー」は執拗に子供を欲しがった。これをストレートに、ヘンリーがついぞ史実上叶えることのできなかった「子供を持つ」という夢/オブセッションの成就だと取るのであれば、ニァグがヘンリーに救済されていると同時に、ヘンリーもまたニァグに救済されている。ニァグの復活のカタルシスと同時に、ヘンリーという孤独な老人の願望成就のカタルシスがある。

つまり、①ニァグへもたらされる創作意欲の再燃、②-Aアウトサイダーアーティストがくだらない常世から架空世界への脱出する、②-B子供を欲した孤独な老人の願望成就、という3つのカタルシスとともに、③現実世界をフィクションで救ってしまう、というメタ的なカタルシスもこの作品には含まれるとおもう。③は実在の人物でしかなし得ないし、①〜②ABも実在の人物で行うのであればヘンリー・ダーガー以上に最適な実在人物はいないだろう。(探せば同様の背景を持つアーティストもいるかもしれないが、ヘンリーが最良の一人であることは疑いようもない)

③のカタルシスを捨てるのであれば、別にヘンリー・ダーカーでなく架空の老人画家をその位置におけばいいけれど、「子作り/生殖」が作中世界で大きく扱われ、それが絵(創作)と不可分であるというヘンリーに寄った構成上、むしろ私にはヘンリー・ダーガーを救うことが前提、メタ的な構造としての到達点として書かれた小説に読めてしまう。し、それに魅力を感じてしまった。そう読むのであれば、そもそもヘンリー・ダーガーの救済のためにこの小説が書かれたならば、彼の存在はこの小説で不可逆的であり、架空の老人や他の実在人物に置き換えれば、まったく違う作品になる。ヘンリー・ダーカーを使う必然性のあるなし以前に、ヘンリー・ダーガーなしでは成り立たない小説であることが私には美しかった。もし③がなかったら、私はこんなにこの小説を好きだとはおもわなかっただろう。

4.史実をフィクションで救済する作品としての、手つきの巧みさ

現実/史実をフィクションで救済する。
近年で目立ったものではタランティーノ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」、藤本タツキ「ルックバック」などが記憶に新しい。

※ルックバックは、あくまでそういう解釈をした場合分類される、であるかもしれないが。本文中ではそう読んだ前提で記述させて頂く。また「救済」という言葉より「追悼」という言葉のほうが合致するようにはおもうが、この文章内ではそこも含め、フィクションが不可逆な現実/史実に対して作用するよう構成されたこと自体へ「救済」という言葉を使用します、と一応ここに記載しておきます。

※あたりまえだけれど、スウィーティーパイについても上記の読みをしない、ということも可能だとおもうし、その読解が間違っているとはおもわない。同時に私の読みが正しいかもわからない。というか、読んでその表出された文章が成立しているのであれば、そこに正解も不正解もないとおもっているから。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」、「ルックバック」、「スウィーティーパイ」はそれぞれ現実/史実をフィクションとして再構築することで不可逆的な現実に対して救済のアプローチを取っている。そういった類似の構図でありながら、各作品は表現のジャンルもそうだが、その手法は大きく異なる。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は、史実(事件)の起こった時代に架空の(フィクショナルな)俳優とスタントマンを配置し世界を再構成することで、史実をIFの世界へと導いている。

「ルックバック」はフィクション内にて現実で起こった事件に類似する事象を扱うことで、フィクションの側から現実に向かって手を伸ばしている。モチーフ、表象を対象とした救済を行なっている。

「スウィーティーパイ」は上記2作とはまた異なる手つきで、現実へ手を差し伸べており、主にその手つきに対して私は票を入れた。

上記2作が「史実をフィクション内で捻じ曲げることで救済する」「史実をモチーフにし、そのフィクション世界を救済する」という手法をつかっていると仮定するなら、スウィーティーパイは「史実にほとんど触れずに、別架空世界内のみでその史実を救済する」という手法が取られているようにおもえる。

「ヘンリー・ダーガー」という実在の人物を扱いながら、その人生の史実をほとんど(※1)改変することもなく、モチーフとして表象することもなく、架空世界内(小説世界内)だけで救済しまう。つまり「史実を書き換えることなく、メタファ的に置き換えることなく、架空世界内のみの運動で救済を試みた」という構造があるように私は読んだ。どれが優れているのか、という話ではない。どれもがそれぞれ優れており、「スウィーティーパイ」は現実/史実に対して過剰に触れない、という点が非常に優れていたようにおもう。

(※1……ヘンリーが実際ニァグの視線を感じていたのか、とか、実際作中のセリフを口走ったのか、とか、ニァグっぽい絵を描いていたのか、とかまあケチはつけられるかもしれない。が、そういわれても私はその指摘に対してケチ以上の何も見いだせない。)

フィクション内で勝手に事件や個人を勝手に現世の我々が救済してしまう、というのはある種の横暴かもしれない(私は好きだが)。逆も然り。そういったジャンルのなかで「現実/史実に対して過剰に触れない」で行う本作の巧みさは、私にとっては驚嘆しうるものだった。反論されうるかもしれないが、本作は伝記的な考証を汚すこともなく、かなりスマートにやってのけていると私にはおもえる。

それでも「横暴である」とされるかもしれないが、私は横暴で暴力的な小説のほうが好きだ、あらゆる側面において。

上記の理由から、この小説はこの小説として書かれるべくして書かれるべきものだけが書かれていると私は信じる。そう信仰してしまったので、票を入れた。

5.その他

とはいえ少しでも気になった点がなかったかというとそんなことはなく(少なくとも作中描写内で)ニァグがヘンリー・ダーガーを絵師としてしかみていないことは、少しひっかかりを覚えた。私たちの現実におけるヘンリーは、絵師/画家という側面よりも世界最長の長編を書いた小説家であるということの方が拡大して語られる場合が多いだろう。
ここを、つまりヘンリーの小説家としての側面が書かれなかったことを、瑕疵として取って余白に読み手の想像を重ねて評することは簡単かもしれない。こんなふうに。

〈色彩が重要視されるニァグの世界からヘンリーをみるにあたって、小説家とするより絵師としての側面を描いたほうが都合がいいからそうしたのだろうか。それは実在の人物を描き切り救済したことにならないのではないだろうか。またその人物像の歪曲は暴力的では?〉

ただ、この余白に対してなされる誤読としてくそつまらないうえ、ふつうに評として建設的はでないだろう。から、私は、この作中の三人称がニァグの世界を基準として語っていること(この三人称において、人間は「彼らの姿は、ニァグの星ではとても珍しい胎生動物に似通っていた。」というような表記がなされる)、およびニァグの世界において〈文字が存在する〉という描写がないことから、「ニァグの世界には小説/言語芸術がない」もしくは「ニァグの世界における芸術はすべて色彩として知覚される」のかもしれない、という誤読をします。(前時代においては造形的なものが創作されていた描写はあるが。)そう考えると、また色々と(特に作中で描写されるニァグたち特有の世界を構成するものについて)考えられそうで面白いですね。

人間と確実に異なる知覚と社会体系をしているニァグたちを描くことで別の、架空の世界を、SF(speculative fiction)を成すことで、それを成し得ているからこそ、絵師たちの邂逅に感動があり、実在の個人をフィクションのなかで史実を歪曲させずに救済しうる。そしてそれゆえ、ヘンリー/もしくは彼の子供は、新しい世界で、ありえない架空の世界で、その未来で、ありえないからこそ美しい色彩によって生命をえるのでしょう。作中内の現実としても、フィクショナルなものとしても。スーパー最高傑作掌編ですね!すげえ!

「他最終候補作品の感想について」

かなり不遜な態度と取られるかもしれないが、私はここで他作品の感想/評は書かない。書かないというか、書いてみた結果、載せるべきではないと判断しました。(ぶっちゃけ文章の長短や読みの精度/評への自信に差はあれど全作分すでに書いてはいます。まじで。)とりあえずいまは出せない、という感じです。

ツイッターなどの文字数に限りがあり、かつ「つぶやき」であることで発言ハードルが低い空間や、こうしたnoteなどのある程度まとまった文章が記載可能な空間においても「突っ込んで書くことを前提としない」ことを前文や文章内の構成から理解される文章であれば、ぱぱっと書いてしまって構わないとおもっています。私もよくやる。ただ、スウィーティパイに対してこの文量/形式で書いた以上、私としてはやるなら全作分これくらいの精度(あくまで私基準でしかないが)では書きたいし、現状書いている評が自分的にまだダメだと感じるのであれば、人目に晒すべきではないとおもっています、もちろん私が私だけに課すものです。

※あくまで私が私個人にそう課しただけであり、そうでない評などがダメという話ではないことは留意頂けると幸いです。
※ということはつまり、評者としての自分を貶めたくねえから、という私の汚い精神性もあらわになるわけですが、そういうこととして受け取って頂いて問題ありません。

何を誰がどう評してもいいとおもう。ゆえに評する時点で、その評も評される場にあがることになる。と私は私に対してはおもっています。スウィーティーパイの評を書いたのは、その内容を作者/読者からどう指摘されようが、そこに私の不徳があったとしても、完全にそれを引き受ける覚悟を持てたからです。つまり、場合によっては土下座も辞さず、一方的にガチ説教を食らっても後悔はないということです。他作の評へは、まだその覚悟が構築できるだけの完成度をみなかった。これは、他作が優れていなかったわけでなく、単純に評する私が優れていなかっただけです。もし最終候補者の方で「は?」と思った方がいたら謝罪します。ごめん!

別に最終候補に残ったからといって他作の評を書く義務があるわけではないので完全に独りよがりな表明でしかないのは明らかであるなか、ただそれを理解した上で上記の考えでいます。ゆえに、この一言で済ませていい作たちではないことを自覚した上で、「あなたの優れた作品と戦えたことを誇りにおもいます」とだけ、僭越ながら他最終候補作の作者の方にこの場をもってお伝えさせて頂きます。日本語おかしい? また、上記の文章で「スウィーティーパイ」「七夕」「アザラシの子どもは生まれてから三日間へその緒をつけたまま泳ぐ」で迷ったと挙げましたが、趣向でいうと「二八蕎麦怒鳴る」「熱と光」も好きでした。もちろん、名前を挙げなかった作が他作に劣るというわけではありません。ちなみに「黄金蝉の恐怖」の「恐怖」は、黄金蝉発見後の金価格暴落による「世界経済的恐怖」では!?的なエキセントリック世迷言を考え、そう読みうる評を余白を乱暴に使わず成立させられるか試した結果できず、評者としての自分に失望しました。

「かぐやSF2開催中に考えたこと」

私はほとんどの場合において、書いた小説をネット上で公開したことがない(自発的ではなく賞レースの過程で公開されてしまったものか、何となくnoteにあげた1作だけだ)。ゆえに、エゴサすると自作の感想がばばばばっとでてくる状況はほとんど体験したことがなく、規模としてその感想の量が、例えばプロの作品と比較したとき多いかというとそんなことはないが、それでもこの状況にはけっこう影響を受けた。

「少女を埋める」関連の情報や意見も飛び込んでくるなか、書くこと、程度の差はあれ世に放つこと、読まれること、評されること、読むこと、評すること、についていやおうなく考えさせられ、考えながら、面倒になり、まあ「面白ければいいし俺のスタンスは変わらねー」とだけおもったので、結果としてあまり考えていなかったということになった。上記のスウィーティパイの評のように、おそらく私はこれからも誤読しまくるし、私の書いたものも誤読されていくのかもしれないが、面白ければ(評として成り立っていれば)いいやとおもった。そして仮にその評が叩かれるのであればその殴打を引き受ければいいし、私の小説について書かれたものに私が(成立/不成立の面で)異を唱えたくなったらカチコミあそばせて頂ければいいやともおもった。そしてそれは私としては私が大事におもうものに対して行えればよく、今回私の書いた小説はそれにはあたらないだろうともおもった。

「自作について、および頂いた感想について」

自作に対してあまりいうことがない。
自作解題をしたとして、もうそのテキストは実際に書かれた小説と結果あまり関係ないものになり、結果小説の面白さから離れていくような気がするから。
※これも私限定ですが。より面白くなる自作解題ができる人もたくさんいるとおもいます。私は無理であるというだけの話で、自作解題自体が悪いとかいう話ではないです。

私の小説を読んで評して頂いた皆さんに対しては感謝しかないです。それが肯定的であれ、否定的であれ、作者本意の読みであれ、作者視点では誤読であれ、感謝の意も総量も変わりません。本当にありがとうございます。
素敵な経験でした。もちろんただの素人であり26歳の若造に過ぎない私なので、感想に対してめちゃくちゃ嬉しくなったり、得意になったり、悲しんだり、キレちらかしたりも私の内的には行われていたうえ、ふつうに「は?」となった特定の評/感想に対して一文単位でインラインを引いて言及と質問の形でカチコミあそばせようか迷ったりもしました。いちいち書く必要のないことですが、いちいち書く必要のないことを書くことでしか伝えられないこともあります。つまり、とてもダイナミックで楽しい数週間を過ごすことができた、ということです。繰り返しになりますが、感謝致します。

感想(肯定/否定問わず)を読む限りは、自作は読まれうるなかで達成すべきことを半分は達成し、半分は達成できなかったようでした。というか、一階層目は達成し二階層目はだいたいの場合において達成できなかったようです。もちろん感想/評に作者側から優劣をつける意はなく、単純に自分の実力不足がよくわかる結果となりました。次はもっといいのを書けるよう精進しようとおもいます。

また、これはあくまで書き手としての表明でしかなく自作の読みを狭める意はありませんが、私自身は社会問題などを文芸表現上で批判したり問題提起することを最大目的にした創作に、書く分にはまったく興味がありません。少なくとも文芸の表現上で扱う場合は素材としてしかみておらず、文芸として、語りが、素材(題材)と登場人物/物体(および描写されたすべて)と人称と読み手とによって相互的に作用し発揮される結果的な効果が、面白くなれば良く、凄みを持てば良く、その材料としてあらゆる現実/非現実が、小説の贄になればいいとおもっています。倫理的に逸脱していようと、逆に社会に今現在求められているメッセージや正論だろうと、ただ利用するために写生した現実の一旦であろうと、結果としてその小説を構成するフィクショナルな一要素でしかなく、私にはすべて同じ、小説を書くための同質の手続きのようにおもえます。正しいかはわかりませんが、私はこれを信仰するし、し続けるとおもいます。そのうえで、社会や人間心理やポリティカルな要素を、それ自体への批判精神や表明することが最大目的で書かれた文芸作品が存在し、求められ受容されうることも理解できます。し、そういった作品もたくさん書かれるべきだとおもいます。ただ、私は書き手としてはそれと距離をおきたいし、そう読まれないものを目指していこうとおもいます。

「ロシア全国民およびロシア文化愛好者の方への謝罪」

どうしても自作である「境界のない、自在な」の作中描写のなかで訂正と謝罪をせざるをえない箇所があります。

ここに行き着くまで「自作解題はしねえ」「読みは多様ぉ」みたいな、けっこう意識高め風なことをいいましたが、私は普通に二律背反的な性格をしたダメ人間なので、簡単にこのパラグラフで自戒を翻そうとおもいます。自作に対して一点大きな瑕疵があり、私の思慮不足、および該当箇所の間違えをこの場で訂正します。もちろん許して頂かなくてもスーパーOKですので、言葉の鈍器をDMなどに放り込む自由はあります。

ボルシチをつくる。焼きあがると同時に、ミミが帰ってくる。

「境界のない、自在な」には、上記の描写が最終段落にありますが、「ボルシチ」ではなく「ピロシキ」、もしくは「焼きあがる」ではなく「できあがる」がおそらく真っ当な表現でしょう。該当箇所に対して違和感を言及して頂いたツイートを発見し、ようやく気づきました。ありがとうございます。

自国の伝統料理をなんとなく使用されたあげく間違えたとあれば、愛国心の強い方であれば激怒は禁じ得ないかとおもいます。この場をもって、全ロシア国民ならびにロシア文化を愛好する方へ謝罪させて頂きます。大変申し訳ございませんでした。もし気づかないまま9月4日の作者名発表を迎えていたら、おそらく大炎上のすえむこう10年はロシア領土の方角へ足を向けて寝れない生活を送ったあげく、いずくて(方言)しょうがなくなり、寝不足による注意欠陥から事故死していた可能性も大いに考えられます。ご指摘頂いた方(蜂本さん)、本当にありがとうございます。
※私の語り口的に皮肉感ね?と一瞬書いててもおもいましたが、皮肉に類するものは上記文章にはまったく含まれませんのでご留意頂けますと幸いです。まじで。

⇩おいしいピロシキのレシピ⇩
https://cookpad.com/recipe/6740464

⇩おいしいボルシチのレシピ⇩
https://cookpad.com/recipe/6688705

どっちもつくったことあるけどうまいですよ。

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上記が8/27に勢いのまま書かれた文章で、それをいま9/3(結果発表前夜)に一応読み返してみているんですが、かなり面倒な読みにくい語り方をするし、校正がなってないし、敬体が適当に混ざるし、補足と事故回避が多く、性格のひんまがりの角度にかなり傾斜がついている様子が文章から感じとれますね。あまり友達になりたくないタイプだな、とおもいました。最近流行りのマッチングアプリで出てきたならゴミ箱?行きでしょう。やったことないですが。それでもフォロー解除およびブロックしない方がいらっしゃったら、その奇特なあなたは、その奇特さをより加速して頂き、できれば無職である私に経済支援をお願い致します。一口1,000万円からで、それ以下の金額は受け付けません。何卒よろしくお願い致します。

枯木枕


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