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ごめんなさい

 何故なのか、考えた。

何故、人前で声が出せるようになった同じ場面緘黙の方たちに対してよろしくない感情を抱いてしまうのかを考えた。

 SNSには、強い勇気と覚悟を持って人前で自分の声を届けた場面緘黙当事者が何人もいる。
 それなのに、私は昨年大学入学を機に自分を変えようと挑んだ自己紹介で、誰にも声を届けられなかった。相当の勇気と意志はあったはずなのに、それに相当する声量はなかった。それはその後のどの授業でも同じだった。未だに一度も発表やプレゼンができていない。私は彼らと何が違うのかが全く理解できなかったし、今も理解できていない。「絶対に話せるようになってみせる!」という強い覚悟もあったし、体調が悪い訳でもなかった。幾ら考えても原因がわからないので、とにかく自分のせいにすることにした。運、根性、性格、-自分のどこが悪いかはわからないけど、とにかく自分が悪いのだと言い聞かせ続けてきた。こんな調子なので、私より運か、根性か、性格か何かが良い方が「場面緘黙症経験者」となってこれまでの経験や苦しみを明かしているのを見る度、「同じような経験をしてきているのにどこでこんなに差ができたのかな…」と余計に苦しくなってしまうのだ。

 でも、場面緘黙を克服して前を向いて生きていこうとする人は本当に素敵だし、羨ましいし、憧れる。だから、そういう人の言葉に触れたくてツイートやnoteの記事を読む。共感もするし、力をくれることもある。その人も私と同じ苦しみを乗り越えてきたのだから、何も悪いこともしていない。

 わかってはいるけど、自分と同じような状況から脱出できた人が沢山いるのに自分にはそれができない苦しみは、外し方のわかっている鎖を首に縛りつけたまま歩き続けなければならない苦しみと同じなのだ。
それをわかっていて欲しいと思うのは、私のエゴだろうか。


 色々考えてみたものの、答えは出ず…

 また何か浮かんだら書きます。

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