マスクを外しても、ぼくらは解放されない

知識の不可逆性という言葉がある。
一度知ってしまったら、知らなかった頃には戻れないという意味だ。簡単に言うと。

例えば、1度かけ算を習った人間は、並べられたりんごを一々数え上げることはしない。
りんごが18個あったとしたら、3個ずつりんごを分けた上で、6つのグループを形成するだろう。

また、不可逆性は知識だけでなく、「経験」の中でも起こりうる。

一度、超高級なカウンターのお寿司屋さんで、活きの良い新鮮なネタを、修行を積み重ねた板前が握った一貫を食べた人間は、回転寿司やスーパーの寿司では満足できなくなってしまうだろう。

一度、不可逆性の沼にはまってしまうと、抜け出すことは難しい。

現在のコロナ禍。もしくは、遠くない未来だと仮定されているアフターコロナ。

この状況の中でこそ、知識の不可逆性の肌で体感することができる。コロナは、不可逆性を最も端的に示してくれるだろう。

コロナが終わったら。
世界はこうなるだろう。
世界はコロナがなかったあの頃に戻れるのだろうか。

リモートワークはどうなる?
もうお店で物は買わない?
地方への移住が進む?
…という専門家や有識者たちの予測を色々と見てきた。

そんな大きな議論が交わされる中、あえて問いたい。
マスクどーする?

「コロナが収束しました!」

そんなニュースが次期首相(菅さんかな?※執筆時は2020/9/14)の口から告げられると、日本は、歓喜に沸くだろう。
やっと、やっと解放されたと。

マスク、苦しいんだもん。

マスクは、コロナ禍における閉塞的な社会情勢のメタファーや、シンボルとして良くできすぎている。

口と鼻を塞ぐ。
その物理的な息苦しさは、そのまま、今の時代の生きづらさを象徴している。

マスクをちょっと外すのも躊躇われ、少し咳き込もうものなら、隣人がギラリと睨みをきかせる。

「マスク…外してえ…」
みんながそう思っているはずだ。

それでも。これはあくまで個人的な主観というか予想だが、コロナが収束してもマスクを着け続ける人も多いと思う。

細菌やウイルスに対する意識が高くなっているから。というのは正当性のある理由だ。
公衆衛生の観点から、マスクを着け続ける選択を取る人は多いはず。

でも、それだけではない。

マスクは「社会における息苦しさの象徴」と書いたが、同時に、一抹の安心感をぼくらにもたらしているように思えてならないのだ。

「マスクをしているから表情が読み取れなくて、コミュニケーションが取りづらい」
そんな声をよく聞く。

「目は口程に物を言う」と昔の言葉があるが、それに倣うなら、「口元は口以上に物を言う」のだ。

日本人は特に、非言語の情報を読み取るのが上手な人種だと思う。

全体に漂うオーラや空気感、仕草、目の動き、口元の動き…
しかし、マスクからのぞく「目元」からの情報だけでは、我々はミスリードを犯してしまう。

例えば、真剣な人の目つきと、怒っている人の目つきは恐らくかなり近しい。
口を歪ませているのか、真一文字に結んでいるのかで、感情のベクトルはだいぶ異なるだろう。

怒っている人に話しかけるときと、真剣に何かに取り組んでいる人に話しかけるときとでは、気の持ち方もかなり変わってくる。

笑っているかどうかも、目元だけでは分かりにくい。目尻のシワよりも、口角が上がり、えくぼがあることで、「あ、笑っている」と認識しやすくなる。

つまり、顔の半分をマスクが覆うことで、読み取れる情報量がかなり少なくなってなってしまうのだ。

これは確かに、コミュニケーションを取る上ではかなり不便である。

だが、ここまで読んできて思わなかっただろうか?
ぼくらはこんなにも、見られているんだと。

ぼく自身、マスクを着用して会議に出席するのだが、妙に安心してしまうのだ。

誰かの発言や自分の発言によって、揺れ動く感情を見透かされている気がしなくなったからだ。

動揺していることを、悲しんでいることを、喜んでいることを、羨んでいることを気取られなくていい。

この安心感は結構病みつきになるんじゃないだろうか。

たぶん我々日本人は、表情から情報を読み取ることをやめられない。上司の顔色をうかがい、親の機嫌を気にし、誰かからの目線にぼくらはおびえ続ける。

マスクは、「目」からの盾になってくれる。

そして、一度着けた盾を外すことは、容易にできることではない。敵前にして、裸一貫でいたくはないはずだ。
これがコロナ後がもたらす、マスクの不可逆性である。

マスクを、ずーっと外さない人もいるはずだ、きっと。

コロナが収束し、マスクを外して振り回したって、フランス国旗のようにはならない。マスクを外すことは、自由解放の象徴にはなりえないのだ。

マスクは、日本にはびこる「別の息苦しさ」から、ぼくらを守ってくれている。

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