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続・1973年の乱闘。農地転用許可基準とゴルフ場。太平洋クラブライオンズ。

こちらの記事の続きです。

極貧の太平洋クラブライオンズが仕掛けた乱闘遺恨試合(続き)

貧すれば鈍する。
そうなのです。
太平洋クラブライオンズは・・・

・・・「やっちまった」のであります。

こちらの書籍から引用させてもらいます。


乱闘前夜。打ち合わせ

まとめてみました。

  • 太平洋クラブライオンズ発足直後、集客に知恵を巡らせた太平洋の球団幹部が「平和台事件」を持ち出し、遺恨による試合抗争を発案。

  • 「平和台事件」とは、遡ること20年前の1952年から53年にかけて、平和台球場で起こった太平洋クラブライオンズの前身の西鉄ライオンズと、ロッテオリオンズの前身の毎日オリオンズとの乱闘流血事件。

  • 平和台事件→weikipeaによりますとこちら

  • 博多っ子は祭りとケンカが好きなので、激しいぶつかり合いは確実に盛り上がる。

  • 太平洋とロッテとの試合でこれを売り物にしようと、ロッテ側に打診。

  • ロッテの金田監督も申し出に乗る。

  • 普段は仲のいい太平洋の稲尾監督と「舌戦を戦わす」ことで同意。

当初の“企画”は、舌戦を戦わす程度だったんですね。
ところが。

1973年5月3日・川崎球場からはじまった

第1ラウンドはロッテオリオンズの本拠地「川崎球場」からだったみたいですね。

そうそう、同世代のみなさん。
川崎球場は「テレビじゃ見れない川崎劇場」をキャッチコピーにしたテレビCMがありましたよね。
あれで一躍、当時の女子たち(という言い方も変ですが)にも知れ渡ることになりまして、「じゃ行ってみようか」と、まさにテレビCM(デート編)のように“デートで川崎球場に行った”というカップルもいた。
「そんじゃついでに川崎競輪か川崎競馬場も行っちゃえば」と、からかった記憶あり。
あ、そんなCM、若い衆は知らんと思いますのでYouTubeを貼り付けておきます。
ロッテ戦はテレビ中継されないので、それを逆手に取った自虐的なテレビコマーシャルで、当時、「さすがっす、スゲー」と思いました。
その劇場の“嚆矢”が、1973年5月3日だったのかも!!!
遺恨試合もテレビじゃ観れない!!!

以下、西武ライオンズ創世記のP125より引用します。

ロッテ対太平洋戦。太平洋は7対12で敗れた。ふがいない試合に怒った三塁側の観客が7回、グランドに空き瓶を投げ込んで、試合が9分間、中断した。混乱はその後も続き、ロッテのサード有藤道世(ありとう・みちよ)、レフト江島巧(えじま・たくみ)はヘルメットをかぶって三塁線から離れて守備についた。太平洋はがら空きの三塁線に向けてバント攻撃を繰り返した。試合後、金田監督が激昂して「そんなに勝ちたいのか、乞食野郎」「あんな田舎チームに負けてたまるか」。これが福岡のスポーツ各紙で大きく報道されて市民の怒りを買う。

西武ライオンズ創世記(P.125より引用)

第2ラウンドは 1973年6月1日から・福岡の平和台球場

第2ラウンドは 1973年6月1日から3日まで平和台球場でのダブルヘッダーを含む4連戦だった。
福岡県警は特別警備体制を敷くと発表し、福岡市内(平和台球場近辺)は騒然とし始める。
太平洋側も観客のグランド乱入に備えて平和台球場の金網の高さを3.2mにかさ上げする。

すげーなと思ったのが記者会見。こんな様子だったみたいです。

(太平洋クラブライオンズの球団幹部は)、地元ファンの怒りを背景に、ファンへの「自粛」ではなくロッテに「自衛」を求めた。逆に遺恨ムードをより高めた要因となる。

西武ライオンズ創世記(P.126より引用)

・・・自衛。
あはは〜!!
すさまじい(笑)。

そりゃ盛り上がりますよね。ワタクシの大好きなプロレスとプロ野球がいっしょになっちゃったみたいで、血が騒ぐ!!

かくして、球場は超満員。ロッテの金田監督はグランドから福岡の観客をおちょくる。ヤジと怒号が飛び交うなか、不敵に笑みを見せる。

・・・見事な“挑発”だったみたいです。

そしてこうなった。

(ロッテに)リードされる展開が8回まで続き、福岡のファンの鬱屈に火がついた。小競合いを発端に太平洋ファンがウイスキーの小瓶で額を割られ流血。それを合図に、空き缶、空き瓶、弁当ガラが乱れ飛んだ。中身の入った瓶、缶まで投げ込まれ、酒の勢いを借りた男たちが内野フェンスをよじ登ろうとして警備員と揉み合う。金網の間からは旗竿が槍のように突き出されて、ロッテの選手を威嚇した。

西武ライオンズ創世記(P.127より引用)

試合は結局ロッテの勝利で終わったが、試合後、ホテルに戻るロッテの選手が乗ったバスは取り囲まれ、投石騒ぎに。

  • 騒ぎがおさまる気配はなく、ロッテの選手たちはいったんグランドに戻る。

  • ロッテ選手は夜の冷え込みに対処するため、投げ入れらたゴミを燃やして暖を取っていたとのこと。

  • その後、機動隊に守られ球場を脱出。

・・・という騒ぎが4試合。
おかげさまで大盛況。
太平洋クラブライオンズ、売上が多くてよかったです。

よし、またやろう。

1974年も大乱闘

激化したみたいです。
幕開けは4月27日、舞台は再び川崎球場。

同点で迎えた4回裏、ロッテは1死3塁から投手成田文男(なりた・ふみお)がレフトフライ、3塁ランナーの弘田澄男(ひろた・すみお)は躊躇なくタッチアップした。誰の目にもクロスプレーと映るタイミングではない。ところが、ホームベース前で突然、弘田が転倒した。捕手の宮寺勝利(みやでら・かつとし)が足をかけたのだ。
1塁コーチャーズボックスから金田が脱兎のごとく駆け寄り、いきなり宮寺を蹴り上げた。それを見た3塁のビュフォードが猛然とダッシュ、金田の首に飛びつくとヘッドロックをかけたまま押し倒した。あとは両軍入り乱れた乱闘劇である。

西武ライオンズ創世記(P.128より引用)

出た−、ヘッドロック。
プロレスワザです。
ついに、ついにプロレスも〜!!

だがこれは、川崎球場の“乱闘”なので、ロッテ側の収益だ。
お次は福岡。
5月21日から、満を持しての平和台球場だ。
太平洋側も平和台球場をなんとか満席にしたい。

(福岡の太平洋クラブライオンズ側は)営業を督励し、特別なポスターをつくった。ビュフォードが金田にヘッドロックをかけた写真が大写しにされ、「今日も博多に血の雨が降る!」とコピーが踊った。

西武ライオンズ創世記(P.128より引用)

なんか、サイコーでしょ。
あはは〜\(^o^)/
スゲーわ。

ちなみに、若干の“時代考証”をしておくと、1973年から74年あたりは、映画でいうと東映の『仁義なき戦い』が大ヒットしてたり、プロレスだとアントニオ猪木がタイガー・ジェット・シンの腕を折るという『腕折り事件』とか、事件でいえば『三菱重工爆破事件』など、今とちがって、まぁまぁ物騒な世の中だったのであります。

当時、草食男子なんて、いたのかな?
いないっぽい。

さて、試合です。

試合当日は試合前からヤジと怒号が飛び交い、標的にされた金田はバットを振り上げて応戦。そうして始まった試合はまたもや瓶や缶が乱舞し、挙げ句の果てには小便を注いだ紙コップまでが金田めがけて投げ入れられた。金田はグランドの砂を投げ返し、騒ぎのたびに試合は中断。

西武ライオンズ創世記(P.129より引用)

すごいです。
荒れに荒れ、ついに機動隊の出動を仰ぐ事態となった。

そして・・・
ついにロッテの選手は命を狙われた。
同書によると〈ロッテ選手の乗ったバスに火を放とうとした者まで現れて、ひとつ間違えば大惨事になっていた〉とのこと。

そんで、あー、球団関係の嘆きが・・・

翌日の22日の試合は中止となった。

う、う、う、売上が・・・・(涙)

3連戦の最終日23日は、それでも試合をやったみたいです。
太平洋側のみなさんよかったですね。
で、どういう試合だったかというと、〈金田と太平洋ファンがネット越しに戦い〉と同書。
あっはっは。
なんの試合じゃ〜\(^o^)/
で、結局、またまた機動隊の投入

それでも2試合で5万8,900人の観客動員ができたので、やれやれ。
平和台球場のキャパは3万1,000人だったらしいので、ほぼほぼ満員御礼。
選手のみなさんも、球団関係者も、おつかれさまでした。
がんばった甲斐もありました。

もちろん賛否両論というか、否が圧倒的だったらしいのですが、親会社を持たず、日々の支払いに事欠くなかでの、まさに、まさに、苦肉の演出。

あっという間に消滅しそうな球団をなんとか維持すべく、批判覚悟の、関係者全員の“苦闘”の一手だったのでありましょう。

50年前の『愛すべき七転八倒♥』だったのですね。
なので。
シンパシーを感じます。

以上、2回に渡ることになりましたが、「農地転用許可基準とゴルフ場」に端を発した50年前の苦肉の乱闘騒ぎをお届けしました。
最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。
ではまた。

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