1973年の乱闘。農地転用許可基準とゴルフ場。太平洋クラブライオンズ。
ワタクシが10歳くらいのころです。
小学生だったワタクシは、プロレスとプロ野球をテレビで観るのが好きで、というか当時はそれくらいしか“娯楽”がなかったのですが、ごくたまに、当時は東京12チャンネルという変なテレビ局(笑)があって、その変なテレビ局が変なプロ野球を中継していました。
パ・リーグ。
なんだろパ・リーグって?
ロッテ→お菓子。
阪急や南海や近鉄→大阪のほうの電車らしい。
このあたりは子どもでもわかるのですが、
太平洋クラブライオンズ。
・・・?
一瞬だけ、4年間だけ、たしかに存在したプロ野球チームで、その後、クラウンライターライオンズ→埼玉西武ライオンズとなって今に至る。
その後わかることになるのですが、そうです、彼らは、ゴルフ場の開発業者だったんですね。
どうして太平洋クラブライオンズは極貧だったのか
ゴルフコースは特定工作物となりまして、都市計画法上、ゴルフコースを開発するには開発許可が必要となります。
出題例はこちら(平成1年【問18】)
市街化調整区域内で行う開発行為で、ゴルフコース等の第二種特定工作物の建設の用に供する目的で行うものについては、都道府県知事の許可を受けなければならない。
正しい。
特定工作物というと、なにやら装置の塊みたいですけど、ゴルフコースもいわば装置の塊で、約100ヘクタールくらいの山林や農地を掘り起こして、ゴルフコースをゴルフコースたらしめる巨大な装置を埋め込みまして、そこに土を被せて芝生を植える。
砂場もあれば水場もある。
農薬も散布できるので芝生も変に鮮やかだ。
巨大な人工物。
特定工作物だ。
あと、ゴルフコースの“適地”を考えると、どうしても農地も入ってくるだろうけど、食糧生産の要としての農地を、おいそれと転用されてたまるか。
ということで、農地の転用についても農地法で厳しく制限している。
農地の転用許可基準(←宅建試験では出題されないけどね)というのがあって、「本来は農地の転用はダメだけど、こういった場合はしかたがないので農地の転用を許可するよ」という“許可の基準”です。
その基準を読んでみるとわかりますが、ゴルフコースはダメ。許可されない。
・・・と、ここまでを前提として、では、プロ野球チーム「太平法クラブライオンズ」なのだが。
もう一つ、若い衆(粋な感じで「わけーし」と読んでね)のために前提を追加します。
「太平法クラブライオンズ」は元々は「西鉄ライオンズ」というチームでして、親会社は西鉄。本拠地は九州・福岡ですね。旧ライオンズは強いチームで優勝もして人気もあったんだけど、とある事件をきっかけに、親会社がプロ野球への関心を失い、あろうことかチーム自体が消滅の危機に。
しばしすったもんだ、紆余曲折の末、中村さんという人が中心になって「福岡野球株式会社」というのを設立し、その会社で旧・西鉄ライオンズを引き取り、プロ野球に参戦することになった。
ちなみに、この中村さんという方は、当時ロッテ・オリオンズのオーナだったらしんだけど、別のチームのオーナーになるという摩訶不思議なこととなった。ロッテのオーナーをやめて、あえて苦難を背負い込み、さぁ栄光ある未来へ。
・・・というとかっこいいんだけど、ものすごい問題点があって、そうなんです、親会社(資金源)がない。
プロ野球チームは親会社があってこそ。
これは当時の話になるのだが、プロ野球チーム(子会社)は巨額の赤字を生み出すものの、親会社から子会社(プロ野球)への資金供出は「親会社の宣伝広告費として処理できる」という国税局の通達があって、「あ、いいじゃんいいじゃん」と。親会社にしてみれは利益を圧縮できて好都合だった。
ということは。
・・・まったく儲からないことが目に見えている。
どうするライオンズ。
そこで当時、高度経済成長期を突っ走っていたニッポン、ようやく国民もレジャーにめざめ、おっさんのレジジャーといえばゴルフ。猫も杓子もゴルフ。そいった時流に乗って勢いがあったのが「太平洋クラブ」だ。
太平洋クラブがイケイケだったこの時代は、そうですそのとおり、かの田中角栄氏が著した『日本列島改造論』で日本中が開発ブームに沸き立ち、ゴルフ場も各地に次々と建設された時期にあたる。
土地の価格もがんがん上昇し、乗り遅れるなとばかり、国民一億人が、誰も彼もが、総不動産屋と化したのであった(笑)。
日本列島改造論につきましては、こちらの記事でもふれています。
もしご興味ありましたら。
まぁそういうわけで、福岡に縁もゆかりもなにもない太平洋クラブに「なんとかしてもらえないか」とお願いをしにいく。
で、ここがいまどきなんだけど、「太平洋クラブ」は親会社になったわけじゃないだよね。“いまどき”の言い方だとネーミングライツ。経営は「福岡野球株式会社」でやるけど太平洋クラブの名前をつけるよ。
なのでお金を出してちょーだい!!
オッケーとなったのだが、口約束だったらしい。
極貧の太平洋クラブライオンズが仕掛けた乱闘遺恨試合
そのネーミングライツでの契約なのだが「最初の1年間は3億円。以後2億円ずつ3年間支払う」というものだったらしい。
いまから50年前の話だから、現時点でいくらくらいになるのかな。
当時の年間の赤字が1億5,000万円くらいだったみたいなので、一息つけそうだ。
お察しのとおりプロ野球経営には遠征費やら球場使用料やら思いのほかコストがかかり、ライオンズの“資金”は絶体絶命のピンチの連続だったので、太平洋クラブの「最初の1年間は3億円。以後2億円ずつ3年間支払う」は、まさにまさに、まさに・・・。
がしかし。
口約束だったからなのか。
「西武ライオンズ創世記/ベースボール・マガジン社」から引用します。
P.135にも球団経営状況は厳しいとして、〈(金融機関から借りた)金は公式戦での試合収入から返し、残額の金利だけ払って元金返済を待たせるのはいつもの事。金が足りなくなると借り受けのためにA銀行へ、A銀行がだめならB銀行、それもだめならC銀行に」〉という状況だったらしい。
ここでのキーワード。
金は公式戦での試合収入から返し
つまり、球場に、いかにして、観客を集めるか。
貧すれば鈍する。
そうなのです。
太平洋クラブライオンズは・・・
・・・「やっちまった」のであります。
すみません、思いのほか長くなってきましたので、今回はここまで。
続きを書きます。