あの時に戻れるなら松坂に戻りたい

 もし戻れるなら、10年くらい前に三重県は松坂をひとり旅した時に戻りたい。

 その頃の私は無職で、それを良いことに宿泊費が抑えられる平日にひとり小旅行を繰り返していた。

 それは隣県に住んでいるのに伊勢神宮に行ったことがない、という理由で行った旅で、1日目は伊勢神宮に行きその近くで1泊し、翌日松坂に移動して松坂で1泊という旅行。

 伊勢神宮とその周辺はガイドブックにあるままを辿った。
 一方の松坂は、ガイドブックには「御城番屋敷」の他にはほんの僅かな情報しかなかった。
 
 松坂に着くと、ずぐに御城番屋敷に行った。
 長屋の武家屋敷が並ぶ風情ある、タイムスリップしたような一角。
 そこを見終わって歩き出すと、男子中学生のグループが向こう側から来た。
 彼らと擦れ違うだけ、のはずだった。
 だけれど彼らは、擦れ違い様に、私に「こんにちはーっ!」と元気よく声を向けた。
 私はびっくりして挨拶を返せなかった。
 咄嗟に声は出てこなかったし、ちょっと会釈するという行動も取れなかった。

 このことが、小さいがじんわりと重い金属製のS字フックとなって、ずっと心にひっかかっている。

 挨拶を返せなかった直後、私は自分が嫌になり俯きながら歩いた。
 俯きながら、自分のシャツの裾とズボンと斜め掛けにした鞄だけを視野に入れて暫く歩いた。
 どれも今はもう持っていないけれどよく覚えている。
 水色と白の細いストライプのシャツに、薄いベージュのチノパンに、エンボス加工された黒い半月型をしたショルダーバッグ。

「こんにちは」と元気よく挨拶したのに無視した大人。
「ああいうひどい大人もいるんだ」と思われたのではないか。
「無視されるなら、もう挨拶なんてしない」と思われたのではないか。
 あれから彼らは挨拶するのをやめてしまったのではないか。

 あの時の松坂に戻って、小さな声でも、会釈だけでもいいから、彼らの方に目を向けて挨拶を返したい。

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