似て非なる祖父と祖母

夫婦は似てくると聞く。それが孫も大人になり、ひ孫が誕生する日もそう遠くはない、なんて頃まで連れ添うと、似ている度合いも高くなるだろう。

祖父母は価値観が同じだった。祖母から「そんな薄着して」と言われれば、その数分後に祖父からも「そんな薄着して」と注意された。快速電車を待つのも何だから今日は鈍行で帰る、と言う私に祖母は「ダラじゃいかん」と言い切る。祖母が「あの子がダラで帰る言っとる」と祖父に伝えると、祖父から「ダラはいかん。ダラなんかぁいかん」と言われ、快速電車の時間を待って帰った。(ダラ:鈍行電車の意。ダラダラ走るからなのか?)スプーンにてんこ盛りの砂糖をコーヒーに3杯4杯と入れる祖母に向かって「そんなに入れたら体に悪い」と言うも、ふたりからは「砂糖はこれくらい入れにゃいかん」と判を押した言葉が返ってきた。

そんなふたりも80歳後半に入ると共に認知症になった。そしてふたりとも病に苦しむこと無くある日突然亡くなるのだが、ふたりは正反対の道を辿った。

一足先に認知症になったのは祖父だった。歩けなくなったため自宅での生活が困難になり、高齢者施設に入居するとすぐに認知症になった。だけれども、とてもお気楽な認知症だった。祖父は人生で一番、仕事が軌道に乗っていた時期に頻繁に北海道に通った。競馬の馬主をしており、買い付けなどのために牧場を訪れた。高齢者施設は愛知県の田舎だったけれど、丘の広がる長閑な景色の中にあったので、祖父は北海道に居ると思い込んでいた。面会に行った際には、祖父を車椅子に乗せ近くのカフェに連れて行くのがお決まりだった。外に出ると祖父は周りを見渡して、「札幌でこんなに天気が良いのは珍しい。函館なら云々」と言った。車で小一時間程の距離から来る私たちに、「今日は何時の飛行機で帰るんだ?」とも訊いてきた。ただ、カフェへ行く途中に通る駐車場に停まる車のナンバープレートを見て、「三河ナンバーがあるがや」「これも三河だ」「ありゃ名古屋だ」と訝しんではいた。いつも最後には「飛行機の時間は大丈夫か。またおいでん」と言ってくれた。

人生の全盛期に多くの時間を過ごした北海道に居ると思っているお気楽な祖父をポジティブな認知症とするならば、祖母は正反対の超絶ネガティブな認知症だった。財布を盗まれたとか泥棒に入られたと言うようになった、と母から話は聞いていた。ある日、祖母は東京で一人暮らしをする私に電話をかけてきて、泥棒に入られたと訴えてた。複数の白装束を纏った人たちが壁を伝って入ってきたと。「何人くらい?」「何を盗られたの?」といろいろ質問しながら、このことか、始まってしまったかと思った。

その電話から暫く経ったある日、母からメールが届いた。祖母に薬を届けるために雪の中を車で行ったというメールを見て、地元に帰り、そして祖母と一緒に住むことを決めた。

このメールは最後の一押しのようなもので、前からずっとひっかかっていたことがあった。祖母は私たちが大人数で押しかける時、きまってたくさんの夕食を作ってもてなしてくれた。定番だったのは、大皿に山盛りに積まれた玉ねぎの天ぷら。ある時、これだけのご飯を作るにはどれだけ時間が掛かるのだろうと思って祖母に訊くと、あんたたちが来る日は朝ごはんを食べた後からずっと料理していると言った。さすがに腰が痛いみたいで、服の上からコルセットを巻いていた。そんな祖母の食卓の隅には、ある時からカップうどんが積まれるようになった。体力が弱り、料理もあまりできなくなってしまったので母が買ってきているのだと知った。今まであれだけ皆んなのためにご飯を作ってくれた人が料理できなくなったらインスタント食品を食べさせられるのかと、そりゃないんじゃないかと納得できなかった。

最初こそ祖母のご飯も作った。鯵のなめろうを作った時は、「良い味が付いとる」と褒めてくれた。美味しそうな生のパイナップルを買って分け合って食べた。だが、私が想像していた祖母とのふたり暮らしは、認知症以前の祖母であって、認知症になってしまった祖母とのふたり暮らしは困難を極めた。

銀行印を盗まれた、と勝手に家を出てタクシーに乗り隣町の銀行に行ってしまう。一回、家の近くからタクシーに乗り込む祖母を見つけて引き摺り降ろした。だが、私が仕事に行っている間に幾度となく銀行に行き、銀行印紛失の手続きをした。手続きをすると自宅にハガキが届き、それを持って行って手続きの続きをするらしいのだが、そんな手順はわかっていない様子で、何度もタクシーに乗って何度も一度目の手続きを行い、家には同じハガキが何枚も送られてきた。ある時、祖母の電話を聞いていると、私のことをヤクザと言っていた。東京に行ってヤクザになってしまったと。てんでサングラスの似合わない丸顔の私がヤクザなんて、と最初は笑えたが、笑うことなど全くできない状況になるのに時間は掛からなかった。皆して自分を病院に入れようとしていると叫び出し、ヘルパーがやってきても籠城し、ここで首を吊ると喚いた。

祖母は電話代が跳ね上がるくらい頻繁に長電話した。決まって私がうるさくて生活できたもんじゃない、とか、監視のために住んでいる、とか、病院に追いやろうとしている、とか、あの子はヤクザだと繰り返した。今でこそ祖母は認知症という名の病気だと理解できているが、その頃の私は祖母から嫌悪感を真正面から向けられていると受け取り、怒りは度々大爆発し、その度に祖母のものを壊した。祖母がいつも風呂上がりに髪を解く柘植の櫛を、力を込めてばきっとふたつに折った。小さな陶器の餅焼き器を両手に持って振りかざし、思いっきり床に叩きつけて割った。思い出の詰まったものなのに、そんなことは全く頭によぎらなかった。

あの餅焼き器で祖母が初めて餅を焼いてくれた時のことはよく覚えている。私が小学生の頃の冬のある日、祖父母の家を尋ねると、見慣れないそれはこたつの上に置かれていた。「あんたが来たら一緒に焼いて食べようと思って、昨日テストしたんだわ」と祖母は言った。菓子器くらの大きさの、フグを形取った陶器の入れ物の中には電気コイルが入っている。上に金網を乗せ、切り餅がふたつ焼けるかどうかという小さなもの。「このまま焼いたら昨日は焦げたもんで、これが要るんだわ」と、祖母はフグの器と金網の間にアルミホイルで作った輪っかを挟んだ。私が来た時にちゃんと焼けるようにテストし準備をしておいてくれたなんて、自分が来ることを楽しみにしてくれていることが存分に伝わってきて嬉しかった。焼いた餅はぜんざいに入れて、美味しく焼けたとふたりで言いながら食べた。それを私は力一杯に割って粉々にした。

物音に驚いた祖母がやって来た。「なんだね!今の大っきな音は」と驚いた様子で言われたが、何も言えずただ追い払った。ご馳走を作って皆をもてなした人が料理できなくなったからってインスタント食品で生活させることに納得いかなかったのも同居の理由だったのに、私が祖母のためにご飯を作るなんて生活はあっという間に終わりを迎え、スーパーでカップうどんやカップやきそばを見繕ってきて、無言で食卓に置いておくのが当たり前となった。カップうどんは、母が買い与えていたのと全く同じもので、やるせなかったし、それを買う自分が許せなかったが、あまり味が濃くなさそうで量が少なめ、となると他に選択肢が無かった。祖母の言葉に燃えたぎる私の怒りは、ものを壊していったところで少しも収まらず、3ヶ月と持たずに私は祖母の家を出た。

それから私は祖母を訪ねることは一度もなかった。私を害をもたらす人間だと言う認知症の祖母と、それを真っ向から受け取り怒りを爆発させる私の関係は同居した3ヶ月で完全に壊れていた。病気だということが理解できていたら、そんなに時を置かずに死んでしまうことがわかっていたら、家を出た後もたまには祖母の好物を持って会いに行っただろう。

私が家を出た半年後のとても寒い冬の日に、祖母は自宅で死んだ。断末魔を上げたゾンビのような形相をしていて、この世のものとは思えないその顔を見た瞬間に見てしまったことを後悔した。その顔は、その後数年間、夢の中に出てきた。道を行く祖母の後ろ姿を見つけて肩をぽんぽんと叩く。振り返る祖母。その顔はいつも、断末魔を上げたゾンビだった。祖母は布団の上で体を折り曲げ、腕を上げた状態で硬直していた。たぶん、苦しみもがいたのだろう。

祖母の死と直面すると後悔と罪悪感で心が重く息苦しくなった。家族の前でこそ涙も本心も隠したが、私が一人、祖母の遺体と留守番している時にやってきた祖母の妹を見ると涙と後悔が溢れ出した。祖母に酷いことをしてしまったと嗚咽をあげながら繰り返した。祖母の妹の「そんなふうに思っちゃあいかん。一緒に暮らせて姉さんも楽しかったよ」という言葉を聞くと、そんな筈はない、と涙の量が一段と増した。自分の心を楽にするためだけだと言われたらそうでしかないが、謝罪の手紙を書き棺に入れた。本当はプッチンプリン蒸しパンも入れたかったけれど、スーパーとコンビニを何件周っても見付からなかった。プッチンプリン蒸しパンとは、あの有名なプッチンプリンの味をした蒸しパンで、祖母がこれが一番おいしいと言うので、共同生活がまだ上手くいっていた頃に何回も買ってきた。販売元のグリコに電話してみると、あれは期間限定商品だったので今は製造されていない、また発売された折にはよろしくお願いします、なんてことを言われた。「また」はもう無いのに。

その頃、祖父は変わらずお気楽に北海道に暮らしていた。晩年は面会に行く度に「どて煮が食べたいから買ってきてくれ」と言われた。北海道に居るから名古屋めしが提供されないとでも思っていたのか。あげたい気持ちはあったが、モツの味噌煮なんて、咀嚼しやすいように半分練ったような食事しか提供されない祖父にあげることはできなかった。

夏が訪れたかのように暖かいゴールデンウイークのある日。朝食を全部食べ、昼寝をしていている間にそのまま息を引き取ったらしい。とても穏やかな表情だった。昼寝をしたままだったし、普段と何ら変わらない顔をしていたので、もしかしたら自分が死んだことに気付いていないかもしれないと心配した母は、祖父の耳元で「おじいさん!死んだよ!死んだんだよ!」と言い聞かせた。確かに、寝ているようにしか見えないので死んだ実感はまるで湧かず、涙の一滴も出てこなかった。

遺骨が汚くなるからなるべくものは入れないほうがいい、と言われていたが、レトルトのどて煮を買ってきて葬儀屋に相談した。「いいよ、入れてあげなよ」と言われて、棺の中の手元近くに入れた。最後に好きな食べものを入れてあげれたことも、何もかも違った。

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