「わたし」という幻/佐々木閑・古舘伊知郎『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』(PHP新書、2024年)
人が苦手というわけではないが、人と会うと、楽しさと同時に必ず何か引っ掛かりがあり、少しの後悔や恥ずかしい気持ちを、一つは抱いてしまう。人と会わなければ、そういうことは感じないが、それでも過去のことを反芻して辛くなる。それに、厄介なことに、私は人とのコミュニケーションがなければ生きられないタイプでもある。昔からいつも、人と会わない辛さと、人と会う辛さを天秤にかけて生きてきたようなところがある。
すべてが流れてゆく世界の中で自分という存在ほど面倒なものはない。私はこう思う、こうあるべきだ、こうなるはずなのにうまくいかない、どうして思い通りいかないのか、そういう苛立ちや現実との摩擦はすべて、自分自身が作り出したもので、そうした執着を無くせば、摩擦そのものがなくなる。人と接するときの苦しみは、たぶんそのような形で解消されるのではないか。
というのは仏教、それも釈迦の仏教思想をベースに考えたことで、それはとにかく「わたし」というものを否定していく。世界にとって邪魔なものとして考える。いわゆる「無我」である。自分の考えや思想や身体や姿勢や性格や血液型や、そういうものにこだわるから辛いのであって、「わたし」にこだわらなければ楽になる。
本書は古代インド仏教哲学を専門とする佐々木閑に、古舘伊知郎が、仏教について教えてもらいに大学まで訪ねたドキュメントなのだが、一読して驚かされるのが、古舘の仏教への造詣の深さだ。プロレス実況で鳴らしたマシンガントークが、テーマを仏教に変えて再現されていると言ったら言い過ぎだろうか。とにかくすごい勢いで自らの体験や考えを語り、問いかけ、仏教を何かに喩え、佐々木の話した内容をまとめる。古舘という、専門家ではないが、とても熱心に仏教を学ぶ人が、専門家に質問を素朴にぶつける。そのおかげで、本書は決して仏教に詳しくないものにとっても、平易に読めるものになっている。
本書は、前半で釈迦の仏教、後半で大乗仏教の解説があり、基本的には著者二人とも、釈迦の仏教を信じているため、大乗仏教や他の宗教に対してはやや批判的に論じられている。この構成から、釈迦の仏教、いわば、オリジナルの仏教はどのような思想であり、それが日本に伝わる過程でどうなったのかが非常にクリアに理解できる。その点、著者の立場が鮮明なので、他のフラットな立場から書かれた入門書よりも、釈迦の仏教と大乗仏教の違い、そのコントラストがわかりやすく、とてもよい入門書だと思った。
ここまで述べた理由で、私は本書を名著だと思うのだが、こう言ってはなんだが、とても名著に見えない雰囲気の作りで、少し損をしていると思う。書名ももう少し考えようがあったのではないか…。ただ、仏教はインテリだけのものではないという意味では、こういうカジュアルな、広い層を狙ったタイトルにならざるを得ない。これが他の宗教ではこうはならないだろう。日本には様々な角度から仏教に興味を持つ人がいる。キリスト教について語っても一家言ある人は少ないが、仏教ではあらゆる人がなんらかの関わりがあり、なんらかの興味がある。それくらい間口が広い。そういうテーマを対象にする以上、書名も、それに合わせて、都市部のインテリだけに向けたものにはできない。
本書でわかる釈迦の仏教の面白さは、まず第一に、釈迦自身がその教えを自ら積極的に広めようとしなかったことだ。つまり、悟りの体験というのは、それぞれが修行を積むしかなく、決してこうすれば悟れるというようなことを言えないということだ。自分でなんとかするしかない。
第二に、それが超越的な存在や神秘に向かわないことだ。その点、仏教はむしろ無神論に近い。しかし、大乗仏教として日本に渡る過程で変容を遂げ、密教などのある種の神秘的なものや、一神教に近いスタイルや、布教活動というものが生まれる。著者の二人はこれらの大乗的なスタンスを批判的に見る。
古舘は「釈迦の仏教は漢方薬だとしたら、大乗仏教はリンゴジュース」(5)と大胆な喩えを使う。釈迦の仏教では、生きる苦しみと対峙することが求められる。それに対して、大乗仏教には現世利益があるから美味しい。これは専門家では言えない喩えだと。そうした極論というか、かなり際どいことも、専門家ではない古舘なら言える。そういう自由さがある。
私はこれまでも「一切皆苦」という言葉が好きだった。それは苦しみに対して、癒しや希望を与えることではなく、そもそもすべてが苦しみだから、あなたの苦しみもまた特別なものではないと教えてくれる。安易な救いではなく、すべての人に救いがないということによって救われるというような、メタ的な構造になっている。例えるなら、悲しい時に幸せな歌など聴きたくないようなものだ。そうすることによって、「自己」に執着すべきでないことを教えてくれる。
世界を一元論的に一つの動的な流れとして見て、単一の「主体」に執着することを諌める仏教は、どこかポストモダンの、「主体」を解体しようとしてきたフランス現代思想とも似ている。「個人」を前提として発展してきた西洋近代的な考え方を否定し、「主体」「合理性」「理性」が、まわりによって構築された幻想であると主張したのが、いわゆるポストモダンの哲学だった。仏教で言えば、「主体」は幻想であり、また、悟りを開く過程を著しく妨げるものでもある。
佐々木が言っている、仏教の核心は、以下のようなものだ。
宗教や政治思想には一般的に、世直し的な世界(社会)を変えようという視点と、自分の心を変えていこうという視点の二つがあると言われる。現在は、社会を変えようという社会運動的な思想がたくさんあるが、自分の心を変えようという思想は少ないか、スピリチュアルな方向に流れがちだ。しかし、それらは社会運動的な視点から見ると、自分の心を変えようというのは消極的服従や現状肯定に映るだろう。しかし、結局自分の見え方、感じ方が変わらないと、たとえ社会が変革されても、いつまでたっても自分自身の心は楽にならないと感じる。私は今まで一貫してそう思ってきたし、これからもそうだろう。
このように、欲望を否定することは反資本主義的な考え方でもある。また、「自分らしさ」や「個性」なども、釈迦の仏教では否定される。消費によって自分らしくあろうとする現代社会に対して、別のアプローチで生きられるのではないか。社会の大多数が従う資本主義の論理の外側に位置する思想を、およそ「思想」と呼ばれるものは常に追い求めてきた。
本書は、仏教の知識と、二人の著者の情熱と、そして具体的なエピソードに満ちている。仏教が、単なるインテリの教養や思想としてではなく、一人の(二人の)生きている人間が考えていることだということが、よくわかる。その点で本書は優れた本だと思う。大澤真幸と橋爪大三郎の名著『ふしぎなキリスト教』や、池上彰と佐藤優の『日本左翼史』のように、シリーズ化してもらえないか。ぜひ多くの方に手に取って欲しい。
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