見出し画像

浅き川も深く渡れ

 狂ったように暑い蔵前の裏道を歩いて、会社の帰り道に蔵前神社の前を通る。春には桜が咲くし、春以外の季節にも、神社には猫がいるから、猫を見るために通る。たまに、神社の本殿の手すりのところに猫がハマっていて、そこにいていいのだろうかとも思うが、可愛いから、私も観光客に混じって写真を撮ることもある。こんな姿を同僚に見られないか不安だ。

 神社の横の掲示板には、よく名言が貼ってある。そこに「浅き川も深く渡れ」(皆虚)という言葉を見つけた。皆虚というのは、江戸時代の僧侶であり俳人であると、ネットで調べると書かれているが、それ以外にはあまり情報がない。なんとなく、禅宗の僧侶を思わせる言葉だけれど、そうなのかはわからない。なによりここは寺ではなく神社だ。さらに東京神社庁のHPを覗くと、もう少し情報がある。「土佐の真宗大谷派円満寺の住職」と書いてある。禅宗ではなく浄土真宗の僧侶だった。

 ところで、私が見たこの言葉の意味はどういうものなのだろうか。こちらも調べてみると、「川が浅いからといって油断は禁物である。何事にも注意深く慎重にせよという教訓」という意味だと書いてあってがっかりした。何事にも注意深くせよ程度の意味なのか。

 私はこの言葉を読んで、直感的にいい言葉だと感じた。私は例えば以下のような意味だと、瞬間的に考えた。川は例えば生活のメタファーである。生活というのは、即物的な、ある意味で「浅い」出来事の積み重ねかもしれない。コーヒー一杯の値段がどうだとか、暑いから日傘をささなければとか、給料から天引きされる税金が高すぎるとか、遅刻しないためには何時頃に家をでなくちゃとか、ほとんどがそういうどうしようもない「浅い」出来事だ。私たちはそうした無数の選択を日々重ねて、それに頭を悩ませる。

 しかし、それら一つ一つの具体的な事柄を生きていても、同時に「深く」生きることが可能である。というか、むしろ、私たちはその一つ一つの「浅い」極めて具体的な、即物的な決断の中でしか、「深さ」に到達できない。私たちは自由な想像力/創造力を通して、日常的に様々な工夫をしているし、哲学的な思考だって、日常の様々な事どもとの対峙から生まれるのではないか。そもそも目の前のものに集中していることこそが、私たちの心を正しい場所に置く事に他ならない。こういう解釈は禅的なのではないだろうか。

 だから単に気をつけて川を渡ってね、ということではなく、人生というのは、自分というのは常に浅い川でパシャパシャ遊んでいるだけなのかもしれないが、そこには常に深淵が口を開けてのぞいているのであって、そういう浅さと深さというのは、その人の心がけや、あるいは、心がけ以上の何か、運命のようなものによって一つにつながっている。私はそのようにこの言葉を解釈して勝手に感銘を受けた。

 選挙などを見ていると、言葉が酷く上滑りしている。言葉を、すごく浅い目的でしか使っていないように感じる。真理に向かうというよりは、何真理から目を背けるために、欺くために、虚勢を張って誰かを威圧するために、人を批判し分断するために、言葉というものが使われているような気がして、一刻も早くここから離れなければと思う。そういう言葉の氾濫に振り回されてなければならないことにうんざりする。選挙に行け。参加しろという方向の命令ばかりで、ここから離れろという人はいない。

 成田悠輔は、視覚や聴覚は人を結びつけるが、言葉は人を分断すると言った。ある意味では、というか言葉を浅く使用しているならば、その言葉は正しいと思う。言葉は何かと何かを文節化するし、人の考え方を言語化して差異を際立たせるのが得意だ。それに対して、視覚や聴覚は、成田が指摘するように、人を一体化する。レニー・リーフェンシュタール的な美学化に寄与するのも、言葉よりも視覚や聴覚だ。しかし、言葉による分断も、視覚や聴覚による共感も、そのどちらもが極めて政治的なものだろう。

 言葉というのは、発した人、伝える人の意図とは関係なく、受け取る側が解釈をすることが可能だ。だからこそ、文学という営みがあるのだし、だからこそ、単に発信する側、すなわち権力/支配の側が言葉に対して権利を持つだけでなく、受ける側、私たちのような大衆の側も、それを力に変えることができる。言葉には、言葉から自由になる可能性もまた、含まれる。その無限の可能性に気づくことで、私たちは私たちの人生をこそ、きっと深く渡ることができるに違いない。そう強く信じることなしには、この時代のすべてが虚しくなるだけだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?