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世界の果ての喫茶店

 友人にいただいたジグソーパズルを開けてみた。比較的大きく数十個のピースが入った箱だった。子供はまだパズルができる月齢ではない雰囲気だから、とりあえず絵のついたピースを一つ一つ触ってもらう。すべてジャラジャラ床に広げてから元の箱に戻していく。子供は片付けが得意で、おそらくまだ片付けているという意識はないと思うが、とにかく箱にズンズンと投げ込んでいく。

 私もそれにつられてパズルを手に取る。目の前のピースに集中する。集中しろと自分に命令する。そうすれば不安にならないからだ。何にも集中できていない瞬間ができると、不安がすぐにその心の隙間に入り込んでくる。具体的な物、対象、そうした世界の感触を見失わないこと。その手触りと共にいることで身を守る。

 街も多分同じだろう。人が歩く。人と人が目を合わす。人が触れ合う。人が距離を取る。そうした本能的な行為が自然にできるような街や社会がいいに決まっている。その最も基本的な身体行為を忘れないように。そこで得られる感覚、快不快を基点として世界を考える。チェーン店でもそうでなくても構わないが、人間に触れ合える店があると安心する。私はそうやって自分を支えてきた。

 *

 今日は世界の果てのカフェに行った。近くのドトールは休日のおじさんや子供達で満席だった。そこから二、三分のところにあるそのカフェには、近所のおじいさんおばあさんが常連でいつもいる。古いアメリカのカフェみたいなバーカウンターに座る。静かで、女性の店員が四人ほどきびきびと働いている。少し薄暗く、音は何が流れているかはなぜか思い出せないが、思い出せない程度に自然な音楽が流れていた。入り口から不忍通りの光が差し込むので、私はなるべく手前の方の席に座ろうとする。

 とても居心地がいいのだけれど、読む本が定まらず、仕方ないので、本棚にあった蓮實重彦『魂の唯物論的な擁護のために』と大きく太い書体で書かれた菊地信義の装丁がなんとなく気が重くて、少し開いてはまたしばらく置いておいた本を持っていった。書名の仰々しさに20代の私は惹かれたが、今の私は少し気後れする。体力がないと本は読めない。

 カフェはドトールと違い静かで少し薄暗く、客はみな影がある感じがして、店に行くたびに居心地良さを感じながらも、どこか寂しい、世界に取り残されたような気分になった。単純に都心から北に離れていき、馴染みのない街に近づいているからかもしれない。今日は少しBad入っているので尚更、私は調子に乗り切れなかった。蓮實重彦と金井美恵子が批評とはマッチョである、あるいは男根的であると語り合う、その重さと軽さのリズムが良かったが、他の章、例えば中沢新一や小森陽一と蓮實重彦との対談になると、話し言葉のはずなのに一つ一つが学会発表のように長く、それこそマッチョな版面に思えて疲れて、ちょうど隣に派手なお婆さんが座り、店員と何やら話し始めたところで店を後にした。

 夜には久しぶりに少し走った。とにかく何かしなくては。そのためには体を動かすことが一番だとあらゆる書物やネットのページに書かれていたり、友人が夜のジョギングを始めたという話を聴いていたのに、それでも走り出す気にならず、暑いからとか体調が悪いとかあれこれ言って走ることを先のばしにしていたのだけれど、このままの気分で週を始めたくない。なんでもいいから、何か動かないと、この状況、心理的な気づまりのようなものが直らないと思い、とりあえず短い時間でもいいからと思い外に出た。

 外は涼しいと思ったが思ったよりも暑く、息が詰まるような湿気に覆われていた。私は近所の宗教施設や通りを越えて歩き始めた。人が少なくて心地よく、暗いからか体も軽く跳ねるように動いているようだった。不忍通りに出て千駄木方面に向かう距離が意外に長い。文京区は道が一つ一つ並行でないので、普通の感覚で歩いていると、思いがけず遠回りになることが少なくない。

 不忍通りには飲み屋が点在しており、みたことのないブックオフもあったし、北(西?方向音痴なのでわからない)に向かう大きな通りも見つけた。飲み屋のあたりでは若者が道で話していたり、外国人が十数人なぜか固まって歩道にいたりして、活気があった。夜の寺町を走るのは少し怖いかと思ったが、そういうふうには感じなかった。それよりも夜の、昼とは違う独特のだらしなさや、闇に紛れた賑やかさが私の心を動かした。そしてまた私は静かな街へと帰った。


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