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平等の抱えるパラドクス「武器になる哲学」

 「武器になる哲学」読んでる途中。

 Amazonブラックフライデーでまんまとkindle unlimitedを始めたわけだが、めちゃくちゃ良いものやん。気になっていた山口周さんの本もあるやん!ということで、読んでる感じ。

その中で、セルジュ・モスコヴィッシ
「差別や格差は、「同質性」が高いからこそ生まれる」
というのがあって
常に持っておかなければならない視点だと思いました。

 世の中の公正性は皆が求めるものなのに、いつまで経っても実現しない。その事実に対して不平不満は絶えず、あちらこちらから聞こえてくる。だが、そもそも「公正性」を考えてみると、実は人間は本質的に「公正性」を求めていないのである、という話である。

え?なんで???という感じであるが、このような考え方。

 平等な社会とは、極論皆が横並びの社会である。すると、隣同士の差が気になりだす。所謂「隣の芝が青い」というやつである。すると「妬み」が発生し、それが差別や格差の火種となる

 では社会システム的に格差がある場合は?みたいな話になるのだが

 例えば「階級(カースト制度など)」といった場合、下級が上級の生活に「妬み」を覚えることがほとんどない。なぜなら前提として住む世界が違っているからである。その分断が機能する。

 変な言い方をすれば、「階級」には不公平という感情が生まれず、むしろその「階級」あるからこそ、差に対するストレスが生まれない。

 だが、公正公平社会であればあるほど、ダイレクトに自分の能力(才能、努力など)が露呈する。すると、逃げ場が無くなってしまうのである。逃げ場を失った感情は「妬み」として昇華され、格差や差別につながる。

 また、仮に完全無欠な「公正な社会」ができたとして、正しく評価された結果、「ダメ」という烙印が押された人々は、自身への肯定のやり方が無くなってしまうのである。


 俯瞰した視点は重要だな、と思った次第でした。


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