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わたしの言葉

今日がとてもいい休日だったので、本当はもう眠たいけど、どうにか言葉にして記録してから今日を終わらせたい。

今日はずっと気になっていた、東京都現代美術館の『翻訳できない わたしの言葉』を観に出かけてきた。

タイトルの通り、言葉がテーマの企画展なのだけど、どんな内容かを説明するだけでも、言葉選びにいつも以上に慎重になってしまうくらい言葉というものと向き合うきっかけを与えられる展示だった。
センシティブな部分もあるけど、それよりもただ受け取った情報量があまりに大きくて、心がいっぱいになって、消化するのに時間がかかっている。

正直、ここから先、今日感じたことを言語化できる自信はない。
それでも今のわたしの言葉で何か記しておきたいと感じている。

わたし自身元々、心に湧いた感情を言葉にするまでに時間をかける方だと思う。
自分の中にははっきりと感情が存在しているのに、それを表に出すのにぴったりな言葉を見つけ出すのは難しいと感じるし、言葉に変換した瞬間から何か違う感じがしてしまうことも多い。

だけど、やっとの思いで言語化した気持ちが、その時に使った言語が原因で相手に届かないということには、さらに大きな辛さがあるはずだ。

とはいえ、わたしはこれまで、自分の使う言語が全く通じない環境で生活したことはないし、使っている言語を否定されたり奪われたりしたことはない。相手や状況に応じて言語を使い分けるという経験もない。
自分の中で、言葉での表現に納得がいかないことは多いけど、言葉で気持ちを表すという行為自体はこうしてできている。

だから、そういった点で少数派として過ごさざるを得ない人たちの気持ちは、わたしには想像することしかできない。

それだけではなく、これはわたしに言語で不自由したいう経験がないからこそ持っている考え方なのか、
わたしの気持ちを言葉で表すのも、わたし自身がわたしの気持ちを理解するのも、わたしの持っている範囲の言葉を使ってでしかできない。と思っていたり、
相手の気持ちを理解しようとする過程でも、わたしは相手の言葉をわたしの持っている言葉に変換している。たとえ、言語を使っているという点や使っている言語が同じ種類だという点が共通していたとしても、わたしの心と相手の心の間には、わたしの言葉と相手の言葉というフィルターがあるから、相手と全く同じ感情になることはできないし、相手を完全に理解することはできない。とか、
言葉と一口に言っても非言語のコミュニケーションも言葉と言えるかもしれないけれどもわたしの中に取り込むときにはわたしの言葉に変換している。だから、できるだけ多くの言葉を自分の中で持っていたい。と思っていたりする。

そんな風にお互いが話す言葉を軸に考えることが多いせいか、言語を使って表現することが困難な人や、使いたい言語を使えない立場にいる人の気持ちに本当の意味で共感するのは難しいと感じる。

相手の気持ちを、言葉に変換せずにそのままわたしの心で感じることができたら簡単だけど、結局相手の気持ちをわかろうとするために今のわたしにできるのは、わたしと同じ言語で表現をする相手であろうが、そうでない方法で表現をする相手であろうが、相手が表現したものをわたしの言葉に変換することなのだろうと思う。

自分の感情を言葉で表現しきれないもどかしさや、相手が何らかの形で表現した感情を受け止める難しさはきっと無くならないけど、なるべく高い解像度で心を通わすことができるまで表現しあうことを諦めずに続けていきたいと思う。

それに、簡単にわかりあえないからこそ表現したいという欲が湧いて、内側にあるものを形として表現した何かを見つめるということがまた面白いのだから、正確にわかりあうということよりも、どうにかしてわかりあおうとすることが尊かったりするのかもしれない。

だから例えわからなくても、わたしの言葉も、相手の言葉も、尊重して、心と心で会話していると感じられるようになるまで対話を続けたい。


ここまで書くのに3時間以上もかけてしまった。今日の日記が昨日の日記になってしまった。やっぱり気持ちを言葉にするのは難しい。
でもその練習は辞めないでいたいし、わたしは言葉が好きなんだと思う。「言葉」という言葉の意味を広げることができたいい日だった。

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