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書くラジオ「誰なのかより先に声があるということ」

僕は大学生の時からの友人とラジオをしている。日常生活を過ごす中で考えたことを話していて、第6回まで進んでいる。そんなラジオは現在、僕のインスタで告知をしていて、僕の事を知っている人が聴いてくれている。ありがたい限りである。そんな中、最近は、僕の友達がこのラジオの存在を自分の友達に紹介してくれていて、僕のことをほとんど知らない人が聴いてくれているらしい。ありがたい限りである。

その人たちは得体の知れない人たちの会話を聴いてることになる。誰で、何者であるかがわからない人の声だけを聴いている。僕はその自らの範疇を超えた邂逅に胸がざわめいている。

その邂逅には、誰であるかより先に声がある、その人の顔より先に雰囲気がある、その人のファッショより先に思考がある。

説明の前に、まず音があり、リズムがあり、トーンがある。

分かるより先に『分かる』があるのである。

誰かなんてどうでも良かったり、その声や振る舞いが先立つ瞬間がある。

僕が小学生の時に通っていた空手教室の先生は先生を名乗れる免許を持たずに教えていた。それが後に判明して空手教室は閉館となった。その後、別の空手教室に通ったけれど、僕が空手の先生を思い出す時はいつもあの太い黒帯を巻いて、ずっしりとした胸筋を道着からチラつかせた、笑顔が苦手な空手の先生ではない『あの先生』なのだ。

高校3年生の時の進路相談で、僕は学校の先生ではなく、坊主の事務員さんに進路の話を聴きに行った。生徒の前で事務報告か何かで話している時の事務員さんの話し方が魅力的だったからだ。なんで職員室ではなくて事務員室で進路の話をしているんだと奇妙な目を向けられたが、その坊主の事務員さんは眉を尖らせ真剣に僕の目を見て相談に乗ってくれた。僕を見つめる先生の目で思い出すのは先生ではない事務員さんの『あの目』なのだ。

このラジオが誰かにとって『あのラジオ』になっていたらいいな。その後、途中で切られるのか、最後まで聴いてしまうのか、はたまた、もう一度聴いてしまうのか。

そんなのはどれであってもいいと思った。

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