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第3章 景観における歴史的重層性(第4節・5節・6節)

第4節 景観と震災復興

1)第3期の景観とは

 関東大震災からの復興期は、東京の町の再構築に絶好のときであった。この復興事業により、景観上の特徴が形成されている。日本橋川には数多くの橋がかけられているが、そのうちの数橋はこの復興事業により架け直され、特徴ある景観を形成していた。これとあわせて、橋爪空間の整備がおこなわれ、都市の美観を考えた橋詰広場が設けられたのである。

 また、橋詰には個性的な建物が建てられ、川はまだ町のなかでその存在を示していた時期であった。

2)復興期の構造物

 復興期に作られた構造物には特徴的なものが多い。なかでも橋は特徴があらわれやすい構造物であった。日本橋川第1橋の豊海橋(1927年竣工、写真49)のトラス橋、隅田川にかかる永代橋(1928年竣工)のアーチ橋などは、川の入り口にあたり、景観上特徴のあるものとなっている。

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写真49 豊海橋と三井倉庫箱崎ビル(IBM箱崎ビル)、親水護岸に注目

 日本橋の西側に架かる江戸橋は、帝都復興計画による「昭和通り」建設のため、1927(昭和2)年に現在の場所へ架け替えられた。それ以前は、河口よりの旧楓川との分岐点近くにあった。昭和通りは、来たるべき自動車社会を意識して、当時としては幅の広い通りとなっていた。また、江戸橋南側西側には、屋上に船のマストを象ったとも思える塔を持つ一風変わった建物を見ることができる。これは、1930(昭和5)年に建てられた三菱倉庫の建物(写真42)である。この建物も震災復興機につくられたもので、橋詰のシンボル的存在になっている*20)。

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写真42 江戸橋南詰にある三菱倉庫 橋詰には大きな植栽地がある

 また、俎(まないた)橋西詰北側には、この頃流行したアパート建築の「九段下ビル」(旧今川小路協働建築、1927年建築、写真11)*21)があり、橋詰のアクセントとなっている。

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写真11 九段下ビル(俎橋東詰北側)
震災復興期の建物。奥のビルは専修大学。

 震災復興では、区画整理も行われた。この成果の一つが先述の昭和通りであった。この他、これから述べる復興公園などの整備につながった。

3)緑水ネットワークの残象

 復興小公園(復興小学校)は、こうした区画整理により発生した土地を利用し、主に小学校と公園を組み合わせることで、学校を地域のシンボルにしようとしたものである(図3-3)。1929(昭和4)年前後に、これら小学校が次々と建てられていった。日本橋川のほとりにある常盤小学校もそのような復興小学校の一つである。

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図3-3日本橋川周辺の緑水ネットワーク(伊藤孝著「東京の橋〜水辺の都市景観」より作成)

 これとあわせて、橋詰広場の設置が帝都復興計画により制度化された。そして、広場の広さ、設置する施設などが明文化された。日本橋川に架かる橋のほとんどには、橋詰広場が設けられた。このときに設けられた橋詰広場は、その特徴として橋の美化手段のため植栽がおこなわれ、公園的な機能を有していた。

 復興小公園と橋詰広場は、震災前に緑が少なかった東京市街の低地部に緑のネットワークを作ろうとするものであった。そして、橋詰広場は「緑水ネットワークの結節点」であった(図3-3)*22)

第5節 既存景観の破壊と再生への模索

1)第4期の景観とは

 第4期は既存の景観の破壊、これまで形成されてきた水路網を完全に否定し、新たに台頭してきた自動車交通への移行期である。このため、従来の水辺景観を構成していた水運や河岸地などは姿を消し、カミソリ堤防や高速道路、水路の埋め立てなど、水と隔絶した景観が出現したのである。

 その後、1980年代以降にあらわれてきた水辺空間を再認識する動きは、それまで打ち捨てられていた水辺景観に再び光を当てるものとなった。親水施設などの整備がおこなわれ、徐々にではあるが河川周辺の景観が改善されつつある。

2)水辺景観の破壊

 日本橋川は、ほぼ全区間にわたり首都高速道路の高架下となっている。この首都高速道路の高架は、戦後の高度経済成長期のシンボルであることには違いない。さらに、旧楓川跡に残る、高架橋下にある埋め立てられた橋「千代田橋」(写真54)などは、この地に革があったことを示すとともに、高架橋の罪の大きさを示すシンボルであろう。

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写真54 旧楓川跡に残る千代田橋の橋柱と欄干、上は首都高速道路の高架

3)水辺の再認識と景観の再生

 このような過去の象徴を破壊する景観は過去のものとなりつつある。新たな景観を構築する動きが僅かではあるがみられはじめるようになった。豊海橋北詰、隅田川右岸に位置した場所にあった三井倉庫は、再開発され新たに三井倉庫箱崎ビル(写真49)に変わった。あわせて隅田川側の川岸部分を親水護岸化して、日本橋川河口と永代橋橋詰の景観上の特徴となった。こうした背景には、交通体系の変化や都心の交通環境の悪化、地価の高騰による収益の問題など、倉庫周辺の環境変化があげられる。

 再開発以外にも動きはみられる。それは、前節で述べた帝都復興期のまちづくりを活かしたまちづくりがなされようとしていることである。復興小公園と橋詰広場の再整備がおこなわれている。豊海橋(写真49 前掲)や湊橋(写真44・45)では、橋や橋詰広場のリニューアル工事が施され、親水性を強調するなど水辺空間の魅力づくりがなされている。

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写真44 リニューアルされた湊橋

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写真45 湊橋北詰から南を望む

第6節 川と周辺地域との結びつき

 日本橋川では、太平洋戦争前まで川と地域の結びつきは強いものがあった。これは、河川を運河として利用し、川は人にとって身近な存在であったからである。地域は水路と道路という二つの交通路を有していた。このため、両者の交差点である橋周辺には個性的な建物が建てられ、橋詰広場が整備されていた。

 このように、深く結びついた川と地域との関係も、関東大震災を経て太平洋戦争と戦後のモータリゼーションの影響、経済成長による水質の悪化を受け、すっかり疎遠になってしまった。この結果は、第5節で述べたような水辺景観の破壊としてあらわれた。

 しかし、1980年代に入ると、河川の水質改善などにより水辺が再認識されるようになった。失われていた川と地域との結びつきを取り戻そうとする動きがみられはじめたのである。水辺は、都市の中におけるゆとりの空間として、再認識されはじめているのである。

注および参考文献

*20)前掲17)参照。
*21)前掲17)参照。
*22)前掲15)参照。

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