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東北 復興の現場にいく②

最終日の今日、震災遺構のたろう観光ホテルに行った。津波によって4階まで破壊された建物。低層部は完全に壁がなくなって、津波が襲ってきた海がよく見える。震災後に造られた14mの防潮堤が視界に広がる。
ガイドさんの話を聞く。田老町はもともと津波の多い町で、明治昭和とたくさんの犠牲者が出ていた。10mもの防潮堤は町の誇りでもあり、安心を生んでいた。高台への避難経路も町の都市計画の中でつくられ、町のどこにいても5分10分で高台まで一直線に逃げられるように道路が整備されていた。
だが、12年前、その想定をはるかに上回る津波が襲った。チェックイン前で客のいなかったホテルの従業員はみな高台に即座に逃げたが、3mと伝えられた津波を記録しておこうとホテルの館長が6階まで上り、ビデオを回した。そのときの映像を見させてもらった。
すでに大方避難し、人も車もいなくなったもぬけの殻の町が映っている。もちろん現場で見ている今の風景とはずいぶん違う。映像では、ホテルの眼下には漁師たちの家が並び、生活の匂いがする。町があるのだ。町の奥には防潮堤が見え、その背後には白い飛沫を上げて押し寄せる波が見えている。
やがて、静かに入江のほうから、黒く暴れる水がデザスター映画や怪獣映画のようにやってくる。あろうことか、一度避難したのに上着を取りに帰ってしまった老婆がそんなことに気づかずに家から出てくる。被災状況を確認しに来た消防車も通り過ぎる。館長が声を張り上げる。津波が来た!はやく逃げろ!と、だが防潮堤の向こうは地上からは見えないのだ。岸壁にぶつかりながら、怒り狂ったような黒い津波が、防潮堤を乗り越えてくる。そこで一瞬、館長のビデオはあまりの恐怖にのけ反る。10秒後にはホテルは津波に飲み込まれる。目の前の何もかもを飲み込んで。6階にいた館長は助かったが、逃げ遅れた老婆はまだ見つかっていないそうだ。

ガイドさんのご家族もまた行方不明なのだという。10mの防潮堤は津波の引波で崩壊し、町のあらゆるものを飲み込んだまま、引波で太平洋まで運んでしまった。遺体が見つからないというのは、やはり残酷なのだと思う。毎月11日に祈ると仰っていた。12年、あっという間にも長かったようにも思うと。
田老町では盛土して町全体を高台にするか、高い防潮堤を築くか、高台に新しく住宅地を作り移るか、町民全体の意見はまとまらないまま、防潮堤を築き、高台に移転したという。
ガイドさん曰く、防潮堤は必要だと。津波を防ぐだけでなく、流されたものを流出させないためにと。防潮堤が崩壊し、行方不明者が多く出た教訓だ。そして、海は見えなくていいのだと。津波が来るのが見えたところで、その10秒後には飲み込まれる。見なくていい。高い場所へ逃げるだけ。田老町の出した結論は、誰も否定できない。

震災遺構や災害復興でつくられた住宅やまちを見て回ることで、色々と考えた。高台移転や盛土、土木的な防潮堤、建築と一体となった防潮堤。様々な考え方や手法がある。
大事なことは日常だと思う。日常と地続きに災害はある。逃げやすさや安全にこだわったまちや建築も、日常の使われ方や人の居場所、交流、生活を支える機能があることが、発災時の行動やその後の心身に大きな影響を与えるのではないだろうか。
そういう意味では震災遺構のそばに商業施設を併設した例は、少し違和感があった。たしかに観光客は来るだろうが、より安全な人々の暮らしがある高台にこそ、道の駅や商業施設はあるべきだろう。そのほうが働きやすく、生活も保たれ、万が一のときにも安全だ。
海とともにある風景がなくなり、これまでとまったく別の高台に移され、海も見えない高台に暮らす。それをああだこうだ言うのではなく、そこに新しい人間同士の関係性や支え合いや暮らしが生まれるような仕掛けと仕組み、デザインが本当は必要だ。
それがいつかまた訪れる津波や地震に対抗しうる力強さになる。
そう信じて、仕事をしたい。


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