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なれの果ての縄文土器たち

縄文土器に関する論文を読んでいたら、「なれの果て」という、学術論文にはあまり似つかわしくない言葉が何度も現れて、吹き出しそうになったことがあります。別にふざけた論文ではなくて、山形真理子氏の「曽利式土器の研究 ― 内的展開と外的交渉の歴史 ―」[1][2]という、いたって真面目な論文です。論旨が明快で大変読みやすく、また随所で「私はこう考える」と自分の立場をすぱっと明らかにしては、それを論証してゆく姿勢が小気味よくて気に入っています。

まだ勝坂式土器と曽利式土器の違いも良く分からなかった頃に初めてこの論文を読み、そのあとで山梨や長野に行ったところ、土器を見た時に得られる情報量が格段に増えた、という経験がありました。それ以来、中部高地に行くときには予習が欠かせない、度々お世話になっている論文です。今では「私の好きな縄文土器の論文No.1」と言ってもよいかも知れません。

その論文で、「なれの果て」という言葉はこのように出てきました。

〔唐草紋系の樽形土器の〕変遷、すなわち退化の様子は明瞭にとらえられる。最終的には器形の張りが失われ、口頸部に存在してきた横長楕円区画が失われ、胴部の渦巻文も失われ4単位の縦長の区画(Π状区画)だけとなり、その胴部文様帯がせり上がって、結果として曽利V式の構成と似通ってしまう。しかしこれが唐草紋系の樽形土器の「なれの果て」であることは、胴部のΠ状区画の上端に半環状の刺突文(勾玉状文とも呼ばれる)がめぐることに示される。

文献[2] 105ページ

18号住の二個体の土器は、樽形土器の「なれの果て」の姿である。樽形土器の器形は細長くのび切って、胴部文様帯のΠ状区画のみとなり、その中にやはり前代までの綾杉状沈線がまばらに残される。この樽形土器の最終的な姿が、曽利式の終末の土器、つまり曽利新3式のハの字紋の土器と、紋様構成・紋様の両面で似ていることは興味深い。

文献[2] 111ページ

「なれの果て」と名指しされている土器は、長野県松本市の坪ノ内遺跡から出土した唐草文系樽形土器です(図1)。

図1 坪ノ内遺跡の土器(左写真と図:18号住No.7 右図:同No.6)
(引用:文献[3]) 

これで終わりではなく、「なれの果て」のだめ押しがもう一度あります。

樽形土器の「なれのはて」と表現した坪ノ内18号住のような「唐草紋系土器」の後にも、その系統の土器は続いている。

文献[2] 115ページ

そして次のような土器がその例として挙げられています。

図2 塩尻市 山ノ神遺跡の土器(36号小竪穴No.1~3)
(引用:文献[4])

唐草文系土器は縄文時代中期後葉に長野県の松本盆地・諏訪盆地を中心に分布した土器です。頸部のくびれがなく、胴部の中ほどが曲線的にふくらむ樽形の器形は、初期の梨久保B式土器から始まりました(下図左)。また東北南部の大木式土器が新潟で在地化して変容した土器(栃倉式)がこの地域に伝わり(下図右)、集合沈線や綾杉文の地文、隆帯の渦巻文、腕骨文、剣先渦巻文などの装飾要素を唐草文系土器にもたらしました[5]。

図3 初期の唐草文系土器
左:梨久保B式(岡谷市 梨久保遺跡) 右:新潟系(塩尻市 平出遺跡)

これらが引き継がれて、沈線地文に隆帯の大柄な渦巻文(唐草文)が描かれた唐草文系の樽形土器が完成します。口縁部の横長な楕円区画と胴部文様帯の二段構成は、関東の加曽利E式土器の影響と言われています。樽形土器は唐草文系土器の最盛期で、広い範囲で多数の樽形土器が作られました。

図4 唐草文系の樽形土器
左:岡谷美術考古館(岡谷市 梨久保遺跡) 
中:平出博物館(塩尻市 平出遺跡) 右:松本市立考古博物館

図3や図4の段階の整った土器と比べると、図1や図2の土器を「なれの果て」と呼びたくなるのも無理からぬ話だと思います。博物館も前者の土器のほうを優先して展示したくなるのが人情で、「なれの果て」の土器を実見する機会はなかなかありません。しかし、やがてはこういう姿になってしまうということを知っていた方が、前者の土器の有難みが増すというものです。

さて、唐草文系の樽形土器の「なれの果て」の姿が、曽利式の終末の土器に似ているという話が文献[2]に出てきました。曽利式土器は、唐草文系土器と並んで中部高地の縄文時代中期中葉を代表する土器です。流麗な突起をもつ古段階の水煙文土器が良く知られています。唐草文系土器との大きな違いは、加曽利E式に紛れ込むような形で、関東にも広く分布が拡大した点です。

図5 曽利式古段階の土器
左:水煙文土器(笛吹市 釈迦堂遺跡) 右:深鉢(北杜市 上小用遺跡)

山梨県北杜市の北杜市考古資料館では、珍しく終末期の曽利Ⅴ式土器を展示していました。それだけでなく展示パネルにこんな解説があります。

曽利Ⅴ式にはハの字状文と呼ばれる「ハ」が連続する模様があり、「ハハハハハ」とみえるので「バカ笑い」とも呼ばれています。

北杜市考古資料館展示パネルより
図6 曽利式終末期の土器
北杜市考古資料館(山崎第4遺跡) 実測図は文献[6]より

たしかに図1右の土器に少し似ています。「バカ笑い」というネーミングにも「なれの果て」に通じるものがあるような気がします。想像ですが「バカ笑い」と呼び始めたのはおそらく土器を発掘する人たちで、(出てきたのが図5みたいな土器じゃなくて)「バカ笑いかぁ」というガッカリ感が伝わってくるようにも思えます。

ところで、「なれの果て」というのは、あくまで現代人であるわれわれの感じ方です。唐草文系や曽利式といった土器型式を知り、その系統の土器の変化を追っていくことで、はじめて「なれの果て」という印象が生まれます。それでは、こうした土器を作って使っていた縄文人は、これらの土器をどのように思っていたのでしょうか。

もちろん、本当のところは知る由もありませんが、この記事を書くにあたって色々調べているうちに、「なれの果て」とは思っていなかった、案外大切に扱っていたのではないかと考えるようになりました。時代遅れで手抜きの文様がついた粗製の土器として使い潰されていたのではなさそうです。

そう推測した理由は、土器が出土した状況です。この記事の見出しのモノクロ写真は、図1の「なれの果て」の土器が出土した、坪ノ内遺跡18号住居址の炉の発掘時の状況です。土器はどちらもこの炉から見つかりました。発掘報告書[3]にはこうあります。

炉の底には、一個体の深鉢(図1左)を大きく四つに割り、重ねて敷いている。破片は全て内面を上に向け、口縁の方向は揃えていない。最上部に敷かれた土器の表面には、被熱の痕が認められる。この土器は接合の結果一個体になり、さらに柱穴跡及び覆土中より出土した破片と接合した。胴部の下半と底を欠くが、他はほとんど完存している。

文献[3] 25ページ

深鉢(図1右)は床面の数ヶ所と炉内より出土した破片が接合しており、本址廃絶時に意図的に壊された可能性がある。

文献[3] 26ページ

この住居を使い始めるとき、また使い終わって閉じるときの呪術的な儀式の重要な祭具として、これらの土器が使われた可能性がある、ということです。だからこそ完形に近い形で出土しています。また18号住居址の埋甕の一つも、同時期の唐草文系土器でした[3]。埋甕は乳幼児の遺体や胞衣を収めて住居床に埋めたと言われ、やはり呪術的な意味を持ちます。同じ坪ノ内遺跡の19号住居址はこれよりやや古い時期のものですが、

本址に伴なう土器はほとんどが加曽利E系の土器で、埋甕のみ唐草文系の土器が使用されている。

文献[3] 24ページ

と述べられています。この時期は唐草文系の土器が関東から伝わった加曽利E式の土器にほぼ取って代わられた頃で、日常使う土器は主に新たな加曽利E式なのですが、祭祀に使う特別な土器には、前の時代の唐草文系の土器が選ばれた、ということです。

図2の山ノ神遺跡の土器も、出土状況は坪ノ内遺跡とは異なりますが、土器の位置づけは共通点を感じさせます。

小竪穴S36は、S-2グリッド、集石の東側に検出され、平面形が円形、断面形がタライ状、深さ26cmである。本小竪穴の西壁際の上部に伏せた状態の深鉢があり、さらに小竪穴底部に横わった深鉢が、逆位の深鉢の口縁部をその口縁で被せるように位置し、さらに小形の深鉢の破片が逆位の深鉢の東側口縁部をおおうように立位で重なり合っていた。逆位の深鉢の内部には、柔い暗褐色土で満たされていた。西側の集石との関係は定かではないが、特殊な出土状態の土器を伴う本小竪穴は、特別な性格を有すると思われる。

文献[4] 22ページ
図7 山ノ神遺跡 小竪穴S36の出土状況
(引用:文献[4])

ただならない出土状況は、やはりこれらの土器が何らかの儀式に使用されたことを意味します。それにしても図2の土器の文様はありえないほどの崩れ方をしています。手を抜いているというより意図的に崩しているような、あるいは文様を描くこと自体がまじないになっていたのかも知れません。

図6の山崎第4遺跡の曽利Ⅴ式土器も、胴部下半を打ち欠いた埋甕でした。出土した13号住居址は焼失住居で、廃絶の際に人為的に焼かれた可能性が論じられています[6]。焼土の中から別の曽利Ⅴ式土器の大型破片が見つかっており、これも廃絶の儀式に用いられたものなのかも知れません。

以上のように当時の縄文人は、現代のわれわれからは「なれの果て」に見える土器を、呪術的な力をもつ土器として特別扱いしていたようです。これと似た現象をわれわれの身の回りに見つけることは、さほど難しいことではないかも知れません。例えば提灯は、照明器具としてはとっくの昔に廃れていて、消え去ってもおかしくない存在ですが、お寺や神社、お盆やお祭りのような場面では今でも盛んに目にします。プラスチック製でLED電球が入った「なれの果て」の姿の提灯でも、祭祀的な雰囲気の中では何やらしっくりおさまる感覚が確かにあります。縄文人はこうした心性をより強固に持っていたはずで、これらの土器の扱いはそこから生じたものではないでしょうか。

「なれの果て」からかなり脱線しましたが、「曽利式土器の研究」のような優れた論文が、インターネット経由で無料で入手して手軽に読める現在の環境を、大変有り難く感じています。縄文土器に興味を持つ皆様には、是非ご一読をお勧めしたいと思います。

最後までお読み頂き、どうもありがとうございました。

参考文献
[1] 山形眞理子「曽利式土器の研究 ― 内的展開と外的交渉の歴史 ― (上)」東京大学文学部考古学研究室研究紀要 14, p75-129 (1996)
[2] 山形眞理子「曽利式土器の研究 ― 内的展開と外的交渉の歴史 ― (下)」東京大学考古学研究室研究紀要 15, p81-135 (1997)
[3] 松本市教育委員会 「松本市文化財調査報告80:松本市坪ノ内遺跡」松本市教育委員会 (1990)
[4] 塩尻市教育委員会 「山ノ神」塩尻市教育委員会 (1985)
[5] 水沢教子 「大木8b式の変容(上)」、長野県埋蔵文化財センター研究論集1:長野県の考古学、p84-123 (1996)
[6] 北杜市教育委員会 「北杜市埋蔵文化財調査報告37:山崎第4遺跡」北杜市教育委員会 (2011)

北杜市考古資料館
所在地:山梨県北杜市大泉町谷戸2414
休館日:火・水曜日、祝祭日の翌日、年末年始
閲覧時間:AM 9:00~PM 5:00(最終入館 PM 4:30)
料金:一般(高校生以上)210円 小中学生100円

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