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『いちばんすきな花』

 一輪の花を差し出されて、必死に口角をあげようとしてみる。花束をもらったときの正解の反応も、「一番好きな花はなんですか?」と訊かれた時の答えも持っていない。それでもそこかしこで花は咲いているし、それどころか咲き乱れるという表現もあるほどだし花屋は同じ駅の中に2件ある、2社が乗り入れている程度のそれなりな駅だったのに2件ある。花に縁がないや。そんなわたしでも、好きな色ならば明確に答えることができる。わたしはとても赤が好き。瀧本緑というペンネームでものを書いてはや2年以上経つけど、わたしの好きな色は赤です。

 巨人ファンなのに赤星憲広(阪神)が好きだった。それはひょっとすると、彼の身に纏っていたバッティンググローブやバットがその名前の通り赤色に包まれていたからかもしれない。少年球児の時のわたしの野球用品のほとんどは赤く染められていた。けれど大会によっては規定で使えなかったし、なんなら高校野球に至ってはバッティンググローブは白か黒か、というような縛りさえあった気がしてなんだか大人になったつもりでいたけれど、そうくるならとパンツを赤色にして、就職活動にもそうやって臨んだ。そして大人になって草ソフトボールをはじめたとき、わたしはまたも赤いグローブを手にしていたのであった。そうやって、わたしは少なくとも「自分の好きな色は赤」だとさんざん主張できる子供だったように思う。

 そんなわたしは、仕事で「もっとあつかましくていい」というフィードバックをいただく大人になった。すすんで主張をする機会が減ったこと、そのことを最近やけに考え、時折落ち込む。これは、加齢なの?まだ27なのに?と思う時もある。でもこれは加齢ではない。ここ3年のさまざまな経験が、「主張することの無為さ」を認識させることに偏っていたのだと思う。悪いことって立て続けに起こる。それは世界がある程度調子のいい人たちの集合体であるという前提があって回っているからで、普通以下の状態でいるときにはそこからこぼれ落ちてしまうからなんだよね。そして調子が戻ってきたらようやくその連鎖が止む、とか。これは自分の場合でしかないけれど。

 ただ、主張の話はそのスパイラルから抜けられなかったケースで、意識的に抑えていた時期を超え、気がついたらほんとうに最初の一言が出てくるのが遅い人間に成り果てた。なので最近はどうにか、「話すんや!」という気合い、ヤワラちゃんの顔パンパン、アレみたいなのをやってから人と会う、仕事に行く、話すのに武装が必要になってきている。

 自分はもっと、「いちびり」で、ひどい小学生だった。これが自分の根底で自分は少しもきれいな人間じゃないと言い聞かせるエピソードとして未だに思い出すのは小学4年生のときの「1/2成人式」みたいなイベントで開かれた縄跳び発表会のこと。あまり縄跳びが得意ではない、という人たちが大勢で大縄跳びをするグループと、縄跳びが得意な人々で構成された個々で縄跳びを披露するグループで縄跳びを発表し自分たちは10歳になったと証明する謎のイベント(思えばこの構造も、縄跳びをさせるのも全部よくわからないのだが)。

 わたしは後者の個人縄跳びチームで、まずそれが嬉しくてたまらなかった。当時「はやぶさ」(※あやとびを一回の跳躍でやり切るのだ)が本当に得意で、ひたすら続けることができたわけであるが、本番のときのわたしはとにかくそれをみんな、みんなとは誰かも分かってなかったが——に早く見て欲しくてしょうがなかった。

 学生時代はけっこう攻撃的だった。心の中では大縄跳びの人たちを蹴散らして、うっひょー、と前に飛び出していた。心の中だったけれどその態度はきっと生活で漏れ出てしまっていたのかもしれない。猛烈にできることがあって、それをできてる自分をとにかく見てほしい、見てくれ見てくれ、という小学生らしい叫びでしかないのだがなぜか覚えていて、わたしの本質は結局あれで、ひたすらに仮の姿で生き続けているのではないか、大人になるまでのあいだで醸成してきた優しさめいたものも全て嘘でしかないのではないか、日曜の昼間、何もせずに家でゴロン、としているときにときどき考えること。


 さて、『いちばんすきな花』であるが、椿ハウスみんなはどこかしら、子供時代から地続きのトラウマをうっすら心に飼いながら生きており、またそれらが今の人生に影響を及ぼしてしまっているいわばアダルトチルドレン状態。アダルトチルドレンというのはまさしく本音を抑圧して生きている存在、なのだが4人は作中、本音を吐露できる存在として出会っており、当然そういう相手がいるので次々「悪口」を吐けるから「ほんとうに抑圧されてきたの?むしろみんな我慢してるのに好き放題言う人たちだな」と思ったのならそれは間違いだ。抑圧された人がようやく出会えたユートピアを描いているのがこの作品です。

 民放ドラマじゃあまり見ない「連帯」を彼らなりの姿(できなかったことを言い合う、嫌いなものを言い合える存在)として描いたこと、それだけでこのドラマはそもそも価値があります。いまわたしにも、それこそ前述した悩みを話せる友達がいて、好きなPodcastの言葉を借りるなら日々のもにょもにょとした思い、そういうのをボロボロと話せるのはほんとうにいい。それが4人になったりしたらもっと楽しいよな、と思うのだけれどああいう連帯の実在ってまだまだ認知されてない気がして、まるで全て夢だったかのような藤井風の弾き語りをバックにしたラストが示唆的だった。

 今作で提示されていたのは「ひとり」が「ふたり」ではなく「4人」でならやっていけるかもしれないという新たな、というか存在していたのだろうけど制度や歴史、不文律に覆われていた価値観だ。ひたすら、友情が恋愛に勝利するために物語が構成されていた。「結婚したのに女友達とカラオケに行こうとする男」として描くのではなく「男友達が結婚したせいで気楽にカラオケも行けなくなった女性」として描いたり、「思わせぶりな女」として描くのではなく「恋愛至上主義に辟易とする女」として描いたり(にしてもストーカーまでやらせると価値観の問題じゃなくなってくるだろうと思ったが)して観るものに価値観の前提を変容するように求める。

 彼らにとって都合の悪い人々はとことん「悪」として描かれていてオイオイ、と思うこともあるけれど、その悪って基本的には固定観念の象徴だったり変わるべきなのに未だに変わってない価値観だったりする。フェミニズムの話、というだけで構えられれて議論にならないことすらあるように未だ語り合うことは難しい、平場でもそう、なので物語の中ではそら抽象化されますわな、と思った。時代の狭間で生まれた作品。2023年という時代がまだまだ谷間であるということ。

 そんな物語が最後に示した「ふたり」で生きていく場合の価値観がそれはそれですごく良かった。赤田家の会話が結局わたしは一番好きだった。彼らは決してどちらに合わせることもなく、自分の考えを押し潰すこともなく、「あ、それはそれなのね」という態度で接し合う。ふたりで生きていくのもありなんですよ。

「いる?」
「いらない」
「そう」

『いちばんすきな花』

 手を取り合うこと、連帯すること、価値観をアップデートすること、それって人によっては自分をずっと支えてきた根幹を揺るがしてしまうことかもしれなくて、それを強いることはやはりためらう。しかしながらその過程にあった抑圧のことを思うとためらってなどいられず。やるしかないよな!という発破のようなものをこの作品から感じたのです。

 「人間は根本的に変わらない」という友達の言葉、このnoteでも何度か書いていてそれは悲しいかな真理、だから根幹を揺るがすことには結果としてならないのかもしれないけど必要なのはアップデートなんですよね。TwitterがXになる必要はなくて、Instagramのアイコンが変遷したくらいのアレがみんなに広がっていってほしい。やるしかないよな!みんながいちばんすきな花はこれで、こういう時がいちばんきらいです、と言える誰かに出会える世界への希望、と思うと混沌の時代にいいもの見れたなと思いました。

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