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兵藤るり『わたしの一番最悪な友だち』

 27歳になっても、面接が苦手なままだった。今日だってキャベツを15分煮込んだりむね肉を削ぎ切りしたりしたけれど、こんなこと転職活動のさなかではとてもできたことじゃなかったと思う。それくらいに面接のある日々というのは憂鬱だし、正直もう、会社員になれたのだから二度と面接をしなくていいとずっと思っていた。思うというか安堵していた、ここ3年ほどは。にもかかわらず欲をかいて、やれキャリアアップだと志してしまったばかりに「いちばん」苦手な行為であるそれとわたしは再び対峙していた。

 面接は商談とは違う。スーツを着ているのに、仕事なのに、自分の心の中を差し出すことを求められる矛盾。それを社会への入り口たる就職活動で行うものだから、そうか社会はそういうところ、自己実現の場所…と思い大卒するわけであるが、実際会社員になってみると、みんなけっこう「自分」を守っている。仮面ライダーのベルトってあるけれどおそらくみんなそれぞれ持っているのではないか。わたしにとってそれは「前髪をあげてデコを出す」ことで、それで気持ちの切り替えをして、日々の自分と働く自分をどこか切り離していたような、そんな気さえする。そうやってみんなタスクと言う名の怪人を倒すためにフルフェイス・もしくはコスチュームを着て過ごしているので、会社の人のLINEを知らないことも往々にしてある。ホワイト企業たる所以なのか、「ほんとうの自分」のやり場は少なくともJapanese Traditional Companyにはあまりない。「ほんとうの自分」。

 笠松ほたるが身近にいたら、絶対に好きになっていたと思う。言葉を大事にしてきた人特有のユーモアのあふれ出方と言うものを兵藤るりさんはこの脚本で体現しきっていたと思う。わたしは美晴と同じ気持ちで彼女を見ていた。ネギを拾って持って行くのではなくて、ネギを落とした人に待ち受ける晩御飯、それを想像している笠松ほたる。物語の中盤だったので彼女ならそうだろうな、と納得がいくエピソード。焼肉の時にジャージを着る決まりのある家庭で育ったらそらそうなる。一方で、彼女は意外と自分のユーモアに自覚的でない。あまりに自然に、「育ち」で習得した強みというのは、他人の介在がないとなかなか気づけないという絶妙なラインの苦悩で、ほたるの自己評価は低い。

 「ほんとうの自分」。確かに、ほたるは美晴をトレースして受験した就職活動で内定を得た。ただ、内定の決め手になったのは美晴要素ではなくほたる自身が育っていく中で培ってきた素の部分だったはずで、朝起きてまずスマホを見る、鏡の前で寝癖を確かめるetc…といった彼女のふつうの暮らしの中で化粧品というものが一縷の輝きを放っていて、この人は人生を面白く生きることを自然にできている人で、社会人になればそれを土台にして、他の人にも何かを与えることができる人なのではないか、そんな期待感をわたしは持てたし、面接官の評価ポイントは明らかにそこだったと思う。

 このドラマの上手だと思ったポイントは、面接のあとほたるが「あそこでああやって明け透けに言えた、素直さが評価されたのか…!」とか言わないことである。多くの就活生にとってアレは「面接官がよーわからんこと聞いてきたがなんか受かってた」程度の認識で終わるのがリアルなはずである(数年後にはいろいろ気づくだろうが)。日系大手の面接でフィードバックがあることは稀有なので、ほたるのように「内定した」その事実だけに喜び、あとはもうなんでもいい、とゴールテープを切ってしまうということは往々にしてあるだろう。仮にほたるが「素の自分」を評価されていたことに気がついていたなら、バリキャリのコスプレをすることなく、自然体のまま働けたのではないか、と思う。これは、採用面で地味に多発しているであろう「ミスマッチ」のまた一つの例なのだろう。(面接官がその人の本質を見抜いたが、いざ入社したら没個性しありふれた社員となり、その人に期待した活躍ができない)

 「素の自分」=「ほんとうの自分」ではないという前提のもとで生きていきたい。このドラマを観るにあたって、小説家の平野啓一郎さんの唱える「分人主義」のことはやはり再考せざるを得なかった。簡単にいうと「たった一つの本当の自分なる概念は存在せず、様々なシチュエーションの自分の顔=分人の集合体こそが自己というもの」という考え方でありわたしはこれに何度も救われてきた。ただ、この考え方を知っていればほたるが救われていたかというとそうではないのが、このドラマが『わたしの一番最悪な友だち』というタイトルの所以であろう。

 つまるところ、分人主義を知っただけでは救われないのかもしれないというある種の絶望がある。自分には色々な姿があり、そのことがわかった、八方美人って悪くないと知ってたとしても救われないことがある。自分のゴキゲンはとても自分で取り切れないことがある――頑張ってきたことを、自分以外の誰かが知っていて頷いてくれて、ようやく自分を愛せる、末長くよろしくお願いします、と言えることがある。承認欲求という言葉はインスタグラムの登場でずいぶんチープになってしまったけど、わたしたちはどうやっても誰かに認めてもらいたくて、それでようやく自分を許せる程度には弱い生き物なのだと思う。

 就職活動の面接程度なら偽りの自分で乗り切れる。けれどその先も人生は続く。人間がいかに社会的な生き物なのかをまざまざと見せつけられつつ、その「面接」の時期から内定を得て、新生活準備をする時期まで放送が並行していたこのドラマに不思議な縁を感じていた。就職活動の時、誰にも自分の人生の邪魔はさせないなどど息巻き、ほとんど独力でやっていたけれど、今回はエージェントに相当助けられ、今ここ。ずっと、自分以外の人間が自分の人生のハンドルを握るのが怖かったけれど運転席はどちらにせよ一人分しかなく、3席ほど空いているのが、そりゃあ人生ゲームも車に人を乗せる。それが家族であれ友人であれ。(人生ゲームはついに「結婚」を選ばない選択肢が生まれたらしい)

 時速20km/hを出すことにさえ怯えていたわたしは、いつの間にか運転ができるようになって首都高速を走ることが大好きになった。そうやって人生は変化に富んでいる。『人生の途中にシンキングタイムがあるのではなくて、人生そのものがシンキングタイムなのかもしれないですね』。それをお互いわかって、『次のカニ日和に』にとして賽を振っていく彼女たちの間にあったもの。自覚的でなくても友情は成立するのだということを描き切った今作のおかげで、世の中では「友情関係である」人々が急増したかもしれない。


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