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『君たちはどう生きるか』

 わたしにとって「物語」そのものの原初イメージはそれこそ森の中にたった一人迷い込んで、いろいろあって泥だらけになって笑顔で帰ってきて、みんなそこそこ無事にてんやわんやしている、悪いやつもなんかかわいくデフォルメされて友達になり、そのあと少しの静寂とともにその物語を振り返る、というまんま『千と千尋の神隠し』だったのだということに、今作のラストを見ていて気が付いた。わたしは明らかに新海誠のファンであるし、彼の『天気の子』を観た時「これぞ!自分の望んでいた物語!」と思ったのだが、そもそも物語に対する感覚は、あのころ、ほんとうに子供のころ、宮崎駿に養われていたのである。化け物になってしまうハウルにおびえるわたしを、母が「キムタクやから大丈夫や」と慰め、スッと涙が引いた、あのころの話である。

 日常⇒非日常への導入がどこか村上春樹作品と似たものを感じさせたのは、やはりアオサギ(CV. 菅田将暉)の所業によるのだろうか。「洒落乙」な消費をされがちな春樹作品だが、春樹ワールドへいざなう存在は奇怪だ(鼠とか、羊男とか)。今回のキミイキバードも村上春樹作品に出てきておかしくない、と思ったがその翼の折れ方がとても宮崎駿的な感じだったので結局宮崎駿作品なのだが。(というか、春樹ワールドでの彼らはあまり翼が折れない) あと「世界の速度」の話をしているところはまんま春樹ワールドだ。狭小なジャズバーで「鼠」的な存在がそれを語って、主人公が「僕にはわからないな」と言いそう。でも宮崎駿作品の少年少女はI don't know.ではなく前に進もうとする。だから当時8歳だったわたしはハウルを見せてもらえていたわけである。

 それにしても、『塔』はあまりにもスタジオジブリというか、彼の過去作品のメタファーだ。苔にうっすらと覆われたその建物が崩れ落ちるさまはそれらの崩壊のメタファーとして明らかだが、おもえば過去作ラピュタでは「滅びの言葉」が唱えられたし、ハウルでは城そのものが崩壊して床と足だけが残った。ポニョでも最後は大津波が発生する。物語の最後でその世界を解体するような場面を描くことは今までこの監督が何度もやってきたことのはずなのだが、今作が彼のキャリアのメタファーとしか思えないのはやはり、彼の年齢と、今作があまりにも内省的な作品であるからなのか。いや、そもそも『君たちはどう生きるか』をタイトルに据えている時点で、ということか。

 年長者の説教というものをいろいろ聞いてきたが、今作は完全に「背中で語る説教」だと思った。『風立ちぬ』に続いて舞台は戦時中であるがゆえ、ある種彼の生きた少年時代を見せられたと思ったら、同時代のまま異世界にいざなうことで今度はクリエイターとして彼が作品とともに歩んだ半生を見せつけられる。キミイキバードは高畑勲だとされていたけど、いやいや伴走者たる鈴木敏夫だというのを読んでそっちの方がしっくり来ると思った。「カケ!カケ!」と言ってるプロデューサー。というかキリコ(若)が高畑勲ですよねたぶん。そうやってともに人生を歩んだ人のようなキャラも交えながら、それを作画しているのは宮崎駿のもとで育ったクリエイター、と。観客に対し彼が「どう生きたか」を見せつけた挙句、それを「引き継いでほしい」と本音めいたものを覗かせつつ、結局その世界をぶっ壊すというメチャクチャぶり。だからひとえに「宮崎駿が後世に託したものはなにか!」と語ってもナンセンスなのかもしれない。製作途中で託すことを放棄している可能性だって十二分にあり得る、それくらいメチャクチャな人なんだなと改めて思った。川村元気がプロデューサーだったら絶対にやらせないであろう展開のメチャクチャさはマルチバース物語さえ想起させる。

 物語としては、主人公が最後、「母がいない世界」への扉を開けるシーンというのは涙を誘う。それはあいみょん母の「おまえ、いいやつだな!」というセリフが救いだったからだろう。こういうのにわたしはいつまで経っても弱い。

 過去作の登場人物の印象を超える登場人物はいなかった。それに、いわば総集編的作りであることは否めない。何か新しい発見があったかと言われれば、なかった。でも、巨匠の最後の一振りであろうそれを2023年に大きなスクリーンを通して見たこと、その事実はすこぶるわたしを奮い立たせている。映画そのものが、ではなくて完全に宮崎駿という人が、わたしを。鑑賞後の高揚感の正体はこれだろう。

 宣伝を一切打たなかったのも納得である。わたしの世代(2000年代)に日本でこどもをやっていると、教育の一部として宮崎駿作品と向き合ってきたこともあるほど、知らぬ間に影響を受けている。そんなこどもたちが大人になってこの作品を見ることで、いつか来る自らの老いを想起させられたし、やはりそれをともに見た人の姿を思い出させたりするわけである。強大コンテンツにはこれがある。思いの外、自分の中でスタジオジブリ作品の存在が大きいことを自覚した。

 手を振りながら空に飛んでいくわらわらたちの姿を見て、それは「誕生」を意味しているはずなのに終わりのことを考えた。誰かにとっての終わりは誰かにとってのはじまりである。宮崎駿が「終わり」について書いたのだ、それを咀嚼しつつ、自分が82歳になったときのことを考える。


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