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『スミコ22』

 どこどん、と日々が過ぎていく。一日の終わりに太鼓の音。毎日1000字近くの日記を書き、雑感なんてとっくに出し切ってしまっているんじゃないのと思うけれど、いざ媒体を変えてみると沸々と湧いて出るのだから一体どれほどの思索を巡らしているのか、とぞっとするよ脳みそ。そりゃ夢でも見ないと情報の整理はやってられないわな。

 前の仕事を辞めた今年の1月が遠い昔のようだ。いわゆる(遠い目)のやり方を知った。遠い目で1月を眺める。斜め30度くらい?わたしの場合は左上を見てたらたいがい遠い目、かな。当事者にならないと言葉に重みが出ない、と先日読んだビジネス書(あまり刺さらなかった)に書いてあったがそれだけは真理だと思う。遠い目を向けたことなんてあまりなかった。遠い目、したことありますか?

 今年も映画をそこそこ観ている。ただ最近は、これという映画になかなかあたらなかったのだが『スミコ22』は別格だった。別に知り合いが作っているからというわけでもなく(『15人で交換日記をつけてみた』のメンバーのひとりが監督している映画なのです)、心のどこかで大事にしている価値観に、うんうんとけっこう激し目に頷いてくれた心地のした映画だった。

 書かないと忘れてしまうようなことをつぶさに記録する人生を選んだ。日記を、書いているということ。先日、ひとりではま寿司へ行き2000円分もの寿司を食べた。それだけ食べたので、水分、と思い回転寿司屋特有のお湯が出るあの機械に手を伸ばすも、ひねって出るお湯のちびちび具合ときたら、幼いころ何度か出くわした公園の蛇口。チロチロチロ…微量。前来た時もこうだったので、仕様かぁ…と思いどうにか必要量を入れ、お茶の粉を溶かしふと、カウンターの仕切り、その下部から、隣の人が同じようにお湯を汲むのが見えた。そちらでは、ドバーっと、お湯が出ていた。わたしが40秒くらいかかる量が5秒ちょいで出ていた。わたしはただ2回連続でそういう席にあたっただけだった。だからといって何一つ絶望感はなく、むしろその様を見て肩の力が抜けさえしたときふと、『スミコ22』のことを思い出した。たぶん、スミコはこういう瞬間、つまり日々のツッコミどころを見逃さない人なんだと思う。

 白スキニーお姉さんが透けていることも、リコーダーを同じ場所で吹いている男のことも。すれ違う人を景色として見ているのではなく、日記を書いて日々を内面化していくうちに、単なる景色だった他者さえ自分の世界に招き入れていく類のユニークさをスミコは持っているのだと思う。そんな主人公を約1時間追い続ける映画ってそりゃ自分好きだな、と思った。

 映画のキャッチコピーにもなっている「自分とたしかに過ごす毎日」というフレーズを時折反芻している。心の中でツッコミを入れたことをできるだけ覚えていたい。何にツッコミを入れるのか、何にこだわるのか。そこに自分が少なからず在ることはわかっている。

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