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初夏エッセイ

 今年の夏はTWICEの『Alcohol-Free』をエンドレスリピートして過ごすものだと思っていたら、長い間興味の範囲外にあったEXILEの『HAVANA LOVE』にハマってしまった。一体ハバナに何があるというのか、そもそもハバナってどこだったかと思い調べてみたらキューバだった。そういえば数年前にカミラ・カベロの『Havana』が流行った。彼女はキューバ出身だった筈だし故郷を歌った歌として捉えれば合点がいくのだが、EXILEのこの曲に関してはパブリックイメージというかもはやハバナという名前から連想される常夏トロピカル感を詰め込み、夏のイイ感じのノリを体現していてバランス感覚と自分たちのイメージに対する自負がすごいなと思った。LDHも蓄積してきた経験が違うのだろうな、とパーリィ・ピープルからかけ離れた自分はそこそこの距離感を取りながらこの曲を楽しんでいる。スーツに満員電車、ハバナ・ラブ…

 慢性鼻炎なので季節の匂いがわからない。季節の匂いを感じられる人たちは耳鼻科にかからないし、ネブライザーを知らない。夏の到来を告げるのは明らかに暑さであるし、梅雨の湿度だ。花粉症の季節を乗り越え、束の間の春を感じられたと思ったら(花粉症患者にとって四季は四季ではなく五季。花春夏秋冬)あっという間に雨ばかりになり、それが明けたら命に関わる暑さが到来した。

 夏だから海に行きたいがそもそも海水浴場が開いているのかわからない。人目もはばかられる。花火はサプライズで打ち上がる。夏祭り中止やラジオ体操中止の貼り紙が散見される。夏を規定し得るのは、「暑い」という事実、ただそれだけになってしまっている気がする。事実ベースで回る世の中は悲しい。四六時中ビジネスをしているような気分になるのは私にとっては少々肩身の狭い思いだ。かつての恋人のロマンチシズムを否定した自分がこれを言うのもダブルスタンダードな気がして癪だが、言葉や論理で説明のつかない部分をいかに重んじ、最終的にそれらを言葉にできるか否かに、人生の豊かさは左右されるのだと思う。

 おそらく、小学生の夏休みに読書感想文や自由研究が存在したのは、それらそのものの中身よりも、「長いスパンで計画的に物事を進める」という社会人必須のスキルを身につけるためだったのだろうが、多くの人は最後の1週間に取り組むので、「締め切りギリギリに間に合わせる技術」を身につけることになる。前者はあくまで性善説でしかなく、政治を見ていてもこういうことが本当に多いな、と思う。期待される効果(本当にそれを期待しているのかは謎だが)を得られるのを期待するだけして、あとは放り投げている。絶対に性悪説のほうが誠実だと思う。何を人間にそこまで期待してるの、という話だ。ストラックアウトを宣言せずに投げてそりゃ当たることもあるだろうけど、そういうことがまかり通っていたら当然一発も当たらないことも出てくる。

 それでも、読書感想文は自分の今を形作る大切なものだ。小学校3年までは惰性であらすじばかりを書いていたが、4年になって初めて、なんというか本格的なものを書いた。「自分の思い」を書くよう、母に叱られ、諭されたのである。あさのあつこの『バッテリー』を題材に書いたはずだ。本に付箋を貼りまくり、野球をやっていたから、自分がこの人物の立場ならこう思うだろう、ということを考えていく——気がつくと顔面にまで付箋を貼っており、母が焦り本気で休ませたという。今こうしてnoteにTWICEについて5000字のお気持ち表明をしたりエッセイを書いたりすることの源流は明らかにここにある。アホみたいに考えて、考えなくても生きていけることまで考えて追及することがもたらす豊かさを知っている私を今日まで生かしているのは、10歳の夏休みの読書感想文なのである。学校代表となり区のコンクールくらいまでは行ったらしい。まあここまで苦心して手に入れた「感想文」を書く力を、文学部に入ったのち「それは感想文ですね」と論文執筆の際にはねられたのは別の話である。

 日本の夏の気候は幼い時と明らかに別物になっている。いつかマレーシアで見た、スコールのような雨が降り注いだりしてビビる。25歳になったので夏は多く見積もっても75回くらいしか体感できないのではないか。夏についての物語を書きたい。書こう。真夏に行う往復ダッシュの後の喉のようにカラカラに乾いた気候でも、心の中は水分を持っていて、汗はとめどなく溢れてくる。だからこそどこか穏やか、それが日本の夏が持つ涼しさの正体なのではなかろうか。

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