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短編小説『打撃施設のファンファーレ』

 バッティングセンターの記憶。バーチャルと呼ばれるプロ野球選手の実写映像に合わせて、マシンが投げ込んでくる120キロのボールに対してスウィングし、それらを打ち返していた。誰も守ることのない内外野へと、幾度となく。打球が向かう先には、ネットと球場を模した内壁が意匠として施されている。どこの銭湯でも、壁に引きの富士山が描かれているのと同じである。

 僕にとってバッティングセンターは練習のためにある場所だった。毎週土日に少年野球チームの練習があった小学生の頃。前日である金曜日に、家から徒歩5分に存在したあのバッティングセンターへ、僕は母からもらった1000円札を握りしめ、背中にはマイバットを背負って、通ったのだ。そのころの景色を思い出そうとすると不思議と暖色系のフィルターがかかってしまうが、いつも夕暮れだったはずはなく、思い出をリアルな映像として思い返すことの難しさを感じた。

 あれから10年以上が経った今日もバッティングセンターに来ている。けれど、手に握っているのは彼女――明日実の少し華奢な細い指とその根元たる手のひらで、僕はエナメルバッグではなく、ウエストポーチをぶら下げている。明日実と交際を始めて2年になるが、彼女は未だに野球についてよく知らない。僕が高校まで野球をやっていたことを知ってはいるのだけれど、ある日までずっと、僕に対してその部分においては全く興味を示さずにきた。

 僕は大学に入ってから、かつて野球をやっていた人間が放つオーラをできる限りそぎ落としていた。それは例えば積極的に女性に声をかけたり、意外とつるむ事を好む集団性、黒を基調としたファッション——成熟するにつれてそれらを手放そうとしてきた僕に対して、チームメイトたちは相変わらずなのだ、と集まるたびに思ったりもした。しかし僕はそうありたくなかった。それはそれ、これはこれと、人生に線を引くのが僕が生きる上で大切にしているスタンスなのだ。

 明日実は大学2年の時に知り合ったから、僕が実際に野球をプレーする姿は見たことがない。あくまで文化的な、休日に鴨川沿いのカフェでPCに向かい文章や詩を書いている、そんな僕に惚れてくれたのが明日実である。僕を悦ばせる方法も誰よりも知っているし僕はそこに対していたく満足しているのだけれど、野球に関してだけは深く入ってこなかった。

 野球をやっていたんだよという話をしても、今日隣の家の赤ちゃんが初めて立ったんだって、と言われた時のような反応しかしない。徹底的に他人事なのだ。過去の優勝を喜んではくれる。けれどそれだけ。そんな状態が1年間は続き、僕たちの交際関係を維持することにとって彼女が僕の野球について無関心であることは悪影響を及ぼさなかったけれど、授業の合間にスマホアプリで2軍戦の情報をながめたりしているときに、どうして好きなものを一緒に追いかけたいと思わないのだろう、ただ一緒にいるだけならペットだってぬいぐるみだって同じじゃないか、と苛立つ時があるくらいだった。

 交際開始から1年半が経った頃、満を持して彼女が僕の実家に遊びに来て、自室に足を踏み入れた。むろん、僕の部屋で彼女と寝るのは初めてだった。彼女は何故かずっと、「セックスはラブホでするもの」とこだわっていたのだけれど、その日は僕の家族が結婚記念日で旅行に行っており、家に誰もいない環境が確実になったので僕の部屋で寝ること、そもそも僕の部屋に来ることを彼女はようやく認めた。彼女はいつも、2人だけの空間を使うことにこだわる。

 しかしその日は少し口に含まれただけで果ててしまったので、それはセックスですらなかった。僕が彼女の隠部に触れることはなかった。彼女は服を着ずに僕に棚にあるものを手に取り始めた。ここでようやく、彼女は僕がただの詩人見習いではなく、野球の夢を諦めた人間であることを知った。部屋に飾られたトロフィー。少年野球で皆で分け合った優勝トロフィーのうちの1つや、中学野球の大会で受賞した敢闘賞。それらを見て明日実は「海くん、野球やってたの」と言った。知っているくせに言った。けれども「私野球1ミリも知らない」とも言った。僕は「いいよ」と言ったし彼女も「うん」と少し寂しそうな顔をした。彼女は下着を素早く着て、服を着て、麦茶を取りに行くといった。洗面所で執拗にうがいをする音が聞こえた。

 その後ことあるごとに、僕たちの話題の中に「野球」が発現するようになった。「大谷がまたホームランだって。でもホームランって何なの?」といった具合に彼女が触れるようになった。話題として現れこそするが、彼女は本当に、野球について1ミリも知らなかった。育ち方を疑った。いくらなんでもそのあたりのことは、普通に生きていれば知りうる情報なのではないか?本は本棚に入れる、米は焼くのではなく炊く。バッターは打ったら1塁へ向かって走る。一塁はバッターから見て右側。柵を越えたらホームラン。こうしたことを知らずにいったいどうやって生きてきたのだと彼女をとがめることもできたのだが、今まで一切話題に出さず、おそらく自分の世界に入れたこともなかった野球という事象が僕の過去にあったことを知って以来彼女はこうなったので、結局その、支配欲由来のいとおしさが勝ってしまい、僕はその都度説明をした。

 このバッティングセンターは、ゲームセンターと併設されているタイプだった。けたたましい筐体ゲームの音と、各々が響かせる打球音がシンクロし、渋谷のスクランブル交差点のような喧騒を作り出していた。彼女が打ってみたいというので、一番遅い70キロのレーンに案内した。彼女はバットのスウィングの仕方はかろうじて知っていたが、例えばグリップの握り方については知らなかった。右打席に立つならば、左手を下、右手を上にしてバットを握らなければならないが彼女は逆手に握ってしまった。それどころか、彼女は果たして自分が右打者なのか左打者なのか、それさえもわかっていないようだった。確かに、自分はいつ、自分自身が右打ちであると自覚したのだと思った。そのタイミングを思い出せない。なんとなくしっくり来たのが右打ちで、そのまま右打ちで練習したから右打ちたりえたのだろうか。とすれば彼女の打席を決定づけるのは今この瞬間の僕なのではないか。明日実は70キロのレーンに入り、2つあるバッターボックスに戸惑い、ホームベースの上に立ち尽くしていた。「どちらでも構わないから入ってごらん」と僕は言った。「じゃあ大谷と同じ、左に」と彼女は左打席に立ったので、少なくともグリップの握り方についてはについては正解に転じた。そして、彼女は左打者としての第一歩を踏み出したことになる。

 機械にお金を入れるとピピっと音が鳴って、バーチャルの画面に光がともった。往年の松坂大輔投手が投影されたのだ。西武時代のユニフォームを着ている。肖像権とかどうなっているんだろうと思ったが、法的な指摘より先にしなければならないのは彼女に対する指導である。
 松坂投手が、かつて一世を風靡したそのワインドアップで――振りかぶった。彼女はどうすればいいのか、となぜか足をバタバタさせている。この様子だけ見ると想像がつかないだろうが、彼女はおいしいものを食べた時に「おいしい!」と言葉に出すのではなくて、10秒ほどかけて笑顔をほころばせるような、感情表現が遅れてくる人である。しかしその面影は今はない。
 そうこうしているうちに画面の中の松坂投手がボールを投じた。現実の彼の2分の1程度のスピードで投じられたボールに対して、彼女はスウィングさえできなかった。「はやい」と言った。僕は「落ち着いて、ボールよく見て」と言ったが、明日実は今度はボールをただただ直視してしまい、またもやスウィングにすら至らなかった。僕は「そしたら、今度は振ってみよう」と言った。松坂投手がボールを投じた瞬間に彼女はスウィングをした。卓球選手が床に落ちたボールをサイドに転がしておこうとするようなスウィングで、とても実戦的ではなかった。あまりに早く振り出したので、彼女がスウィングして約1秒経ってからボールがホームベースに到達した。とてもじゃないが今日中にバットに当たる気がしない。彼女はそのあとも見当違いなスウィングを続けた。発電をしない風力発電のようだった。気が付くと既定の20球が終わってしまった。グランドスラムを打たれた投手のように、すっかり肩を落とした彼女がやってきた。「全然わかんない」と言った。隣のレーンで、金髪の男と、その右腕を掴むどころか右腕に抱き着いている女がいた。蛇のように絡み付いていた。「見たい~打って~」と女が男にベタベタくっついている。男は100キロのゲージに入り、次々とボールを打ち返していく。女が「キャー」とか「ヒュー」とか言って、1球1球に愛情を注いでいた。それを見た明日実は「海くんも打ってよ」と言った。僕は財布から既定の200円を取り出して、130キロのゲージに入った。貸し出し用のバットのグリップはザラザラしていて、定期的なメンテナンスをしていないことがわかった。しっかり握らないと滑りそうだ。初めてグリップを自分で巻けるようになった日を思い出した。隣のゲージを見やるとさっきの男がラスト1球と叫び、強烈なライナー性の打球を放った。打球は惜しくも「ホームラン」と書かれた球体のわずか右に逸れた。女は「キャー」と声を上げるいっぽうだった。
 200円を入れると、スクリーンに日本ハム時代のダルビッシュ有投手が浮かび上がった。セットポジションから投じられたボールは隣のゲージで投じられていたそれより確実に速いものだった。僕はそれを難なく捉え、ダルビッシュ投手めがけてライナー性の打球で打ち返した。次も、その次も同じような打球を放った。明日実がうしろで「えっ」と驚いている。

 いとも簡単に速球を捉えられること、これにはからくりがある。バッティングセンターで体感する130キロは、実戦の130キロには程遠いものなのだ。体感速度を決定する大きな要因の一つが、初速と終速の差である。よく球場やテレビなどで出る球速表示、あれは投手の手を離れた瞬間のボールの速さ、つまり初速を計測していることがほとんどだ。例えば投手の手を離れた瞬間150キロの速さを持っていたとしても、ホームベース到達時に勢いを失い130キロになっていたら、いわゆる「球速表示ほどの勢いを感じない」ストレートだと評される。「150キロなのに遅いなあ」と思うのだ、少なくともプロレベルの選手は。この初速と終速の差が小さければ小さいほど、「手元で伸びてくる」と錯覚するようになるのだ。「ボールだと思ったらストライクだった」という感覚の正体もこれだ。藤川球児投手や2018年夏の甲子園を席捲した吉田輝星投手が投じているのがこのようなストレートだ。初速と終速の差を縮める要素は様々で、例えばボールの回転数。それを生み出すための手首のスナップの良さ。そのスナップの良さを生み出すためには手首だけではなく体全体のキレが必要になり、そのためには——スポーツにおけるパフォーマンスが生み出されるその瞬間というものは、すべての努力が伏線となっている。その努力が1パーセント、才能が99パーセント。しかし今相対している機械は所詮機械なので、生まれ持った能力、つまり才能の部分が100パーセントで、まるっきり同じで個性がない。体のキレもクセもクソもない。130キロのゲージのマシンは、初速130キロを投じることだけに特化していて、その先のボールの勢いについては関心がない。いわゆる「棒球」がそこに在り、だからタイミングさえ合わせれば、熟練者は130キロであろうと簡単に捉えることができてしまう、それがバッティングセンターデートで男がバッチバチの強打をかますからくりなのだ。実は彼らの生涯打率は1割台かもしれないし、僕だってそうだった。おそらくあのチャラチャラした男も、少年野球か中学野球くらいまで野球に勤しんでいたのだろう。

 僕は依然として強烈な打球を放ち続けた。10球目、ついにホームランの的にぶつけた。仮装大賞の時に流れるファンファーレのようなけたたましい音がバッティングセンターに鳴り響く。「ホームランおめでとうございます」とニュースキャスターのような正確さを持ったアナウンスが聞こえてくる。明日実が後ろで「すごい、すごい」と興奮している。しかしまだ10球残っているので、僕は次のボールへまなざしを向けた。結局20球のうち、打ち損じは2球ほどだった。それ以外はすべて、自分自身で納得のいく打撃ができたと思う。打率9割だ。
「なんで、なんでそんなに当たるの、すごいよ海くん。ねえ、ホームラン賞ってあるんだって。貰いに行こうよ」
 やはり、野球にかかわりを持つようになってから明日実の性格が変わった気がする。かつての知的で少しでも触れたら壊れそうな、砂の城のような雰囲気ではなく、若さの象徴のような軽快さが溢れ出るようになった。しかしそれよりも、「なんでそんなに当たるの」という言葉に対して私はひそかに落ち込んだ。軽率ささえ覚えた。そう、彼女の中では大谷翔平のホームランも私のバッティングセンターにおける打撃もすべて同じ、「当たるってすごい」というところで片付いてしまっているのだ。それ以上の深みを持たないのだ。あれほどの知性を持っていた明日実も、結局は顔と雰囲気と感動ポルノにより高校野球ファンになっているあの人たちと変わらないとなると、突然どこにも居場所がなくなってしまった気がした。

 ホームラン賞の記念撮影をした。店員さんがデジカメで撮ってくれた。チェックの半袖シャツにジーパンというラフな身なりだ。彼の背後にある壁に、こうしてホームラン賞記念撮影をした人々の写真が大量に飾られていた。今時、スナップ写真も珍しい。アルバイト君は「スマホでも撮りますか?」と聞いてくれて、明日実がすぐにスマホを差し出した。後で明日実からLINEでこの写真が送られてくることを想像した。そして、おそらくアルバイトであろう彼はどういう気持ちでいるのだろうと考えた。プロ野球のレギュラーシーズンでは、僕の肌感覚では毎日平均5本くらいのホームランが出ている。このバッティングセンターでは1日どれくらいのホームラン賞が生まれているのだろう。

「すごい。この子の写真だけ何枚もある」
 壁に貼られた写真にへばりつくようにして顔を近づけながら明日実がいう。彼女は少し目が悪いが眼鏡もコンタクトもしない。そのため、そもそもバットにボールを当てるのは至難の業なのだ。
「たぶん、毎週ここに練習しに来てるんだろうな」
「練習?」
「そう。練習。高校の野球部とかなら、ああいうマシンがあるのは普通だし、部活だから毎日練習できるけれど、小学生は平日に練習がないしチームにマシンもないから、けっこうみんな、バッティングセンターに練習しに来るんだよ」
「へー、そうなんだ」
 明日実はまだその少年から目を離さないでいた。背後で聞こえる打球音は、先ほどのチャラチャラした男の第二打席によるものだった。確かに鋭い打球は放つが、絶望的に上半身だけで打っている。下半身が一切使えていない。腰が入ってない、腰が。そのような素人打ちでも鋭い打球を放つことができ、女性の心をつかむことができる。それがバッティングセンターなのだ。虚構が音を持って鳴り響いていた。


 130キロのゲージで第2打席に入ろうとしたが先客がいた。150センチくらいの小柄な少年だった。機械にお金を入れる時顔が見えて、明日実が「あ」と言い、僕も気が付いた。壁に大量の写真が貼られていた、あのホームラン少年だった。
 彼は打席に入ると、まず第1球をバントした。ボールを最後まで見て、三塁側へ勢いを殺した絶妙なバント。明日実が「なにあれ」と言ったけれど、僕は無視した。
 2球目、今度はバントの構えからテークバックに戻し、初めてスウィングした。バスターである。また明日実の知らない要素だと思ったが、彼女は黙っていた。打球は当然のごとくジャストミートされ、勢いよく飛んでいく。3球目からは普通の構えを作った。レフト、センター、ライト、レフト、センター、ライトと1球ごとに打ち分けていく。そうとう野球が上手な人間の行動である。芯を食わせてバッティングするだけでも難しいのに、彼はそのうえで「打ち分けて」いる。
 このすごさを明日実に説明する言葉を持ち合わせていないことを虚しく思った。いや、言葉は確かに持ち合わせている。逆方向に打球を放つためにはボールを呼び込まなければいけない。体を開いたスウィングでは難しく、しっかり踏み込んで、バットをインサイドアウト——押し出すようにして打たなければならず、そのためにはどれほどの鍛錬が必要か。言葉は尽くせる。けれど、前提はない。——ここにたたずんだところで。僕は明日実に、もう一度70キロを打ってみようよ、と促した。明日実は素直に言うことを聞いてくれて、僕たちは130キロのゲージから離れた。
 明日実はまた空振りを続けた。隣のゲージでは相変わらずチャラチャラした男が100キロのゲージでイキリ倒しており、その後ろで女ががずっと両手をほっぺたに当てている。感情表現が絵文字のレベルで止まっている。反対側では少年がホームランを打っていた。一喜一憂することなく、次の打球も打ち分けていく。一心不乱に、ただボールだけを見て。いや、おそらく自分のスウィングも見つめて。隣ではチャラチャラした男が上半身だけのスウィング。しょうもない。くだらない。女に見せつけるための野球なんて——そう思ったところで、自分の胸にその言葉が刺さった。ああ、もう少年ではない。
 僕がさっきした20スウィングが純粋なものだとしたら、それはただ1人自分のためのもの。しかし僕の後ろには明日実がおり、明日実が感想を述べてくれる以上、僕のスウィングは明日実のためのものである。相手がいればそれはマスターベーションではなくてセックスだろう。明日実のためのスウィング?あの頃とえらい違いだ。あの少年とえらい違いだ。彼や昔の僕のここでのスウィングは、最終的にはチームの勝利のためのスウィングだ。プロ野球選手になることを見据えていたなら、自分の将来のためのスウィングだ。きわめて純粋なものだ。そしてそれは自己満足のためではない。

 ——本当にそうだろうか。

 チームのためのスウィングというが、その先にあるのはなにか。勝利か。そうやって勝利を積み重ねて高校野球を始めて、大会に出て勝ち進めば応援してくれる誰かが増えてそこでひょっとすると恋が生まれる。もしプロ野球選手になって、王道的にアナウンサーと結婚したら、積み重ねてきたそのスウィングは何のためにある?あのチャラ男の彼女が纏う香水の、柑橘系の匂いが漂ってきて鼻をついた。僕はすべてのスウィングが最終的にセックスのためにある気がしてきた。セックスのため——それは性欲だけに終始しない。広い目で見れば、子孫繁栄のためということになる。そうなのか?そんなことはないと信じたい。ホームラン少年の、テークバックしたヘッドが無駄なく一直線にボールを捉える、スウィングの軌道を見た。美しいフォロースルーだ。美しいスウィングだ。僕たちは人間として生まれたが、その本能的な部分や、宿命的な側面から切り離されることでどうにか平静を保っている。そうして、豊かさを得ている。スウィングをする。野球をする。勝った、負けた、感動した。しかしそのすべてが結果論としてセックスやその先にある子孫繫栄のために存在しているとしたら――生まれて初めて吐き気を催した。僕がどれほどまでに野球というスポーツを愛してきたか。バッティングセンターを見渡す。いろいろなスウィングをする人たちがいる。銭湯でいろいろな人の体を見た時の気持ちを思い出す。性器一つにしろ、いろいろな形があり奇妙だった。このバッティングセンターにいる人間みんなが服を着ていなくて、男たちがみな勃起しながらスウィングに勤しむ姿を想像して、僕は吐き気を催した。

 しかし、例えその環境に在ったとしても、あの少年だけは服を着ているのだろう。彼もまだ気が付いてないだけとはいえ、確かに今彼の頭の中にあるのは野球のことだけだろう。自分の目標や夢中なことに一心に取り組めること、そのほうが、よほど心が豊かなのだ。私たちは大人になればなるほど様々なものに興味を持ち、視野が広がったように思いこむが、結局それは寂しさを埋める行為にすぎない。年をとればとるほど彼のような気持ちにはなれなくなっていく。歳をとるごとに服を脱いで行き、気がつけば身ぐるみ剥がされ、国からも本能からも繁殖を促される。チャラチャラした男を見る。ワンスイングごとに後ろを振り返り、彼女の表情を伺っていた。彼と彼女の間の恋愛そのものに対する姿勢があれならば、まあ悪くはないと思ったが、バッターボックスにおける振る舞いとしては非常に格好悪いものだった。

「ホームランおめでとうございます」

 無機質なアナウンスが場内に再び響き渡る。チャラチャラした男を見ていたから、またホームラン少年が一発打ったのだろう、と思った。しかし彼はすでにゲージの外のベンチに座って、スポーツドリンクをがぶ飲みしていた。他のレーンを見渡してもバッターボックスに入っている者は皆無だった。不具合なのだろうか。
「ねえホームラン打った!」
「は?」
 明日実が目の前ではしゃいでいた。ホームランを打った?その次のボールに対するスウィングは空振りで、とてもバットにボールが当たるような代物ではないし、その次も、次もたとえボールが当たったとしてもホームランになるようなものではなかった。結局残り5球、すべて空振りして彼女はゲージから出てきた。
「やったー!」
「え、明日実ホームラン打ったの」
「え、何それ、見てなかったの?」
 途端に目を見られなくなってしまった。おそらく本当に目が泳いだのだと思う。
「私のホームランを見なかったの?」
「いや、見てたよ、見てたけど信じられなかったからさ、確認、してみた」
「確認、する?大谷翔平が目の前でホームラン打って、それベンチで迎えて、今ホームラン打ったのって確認する?しないよね?ホームラン打った時に確認するのは、観客席で下向いてスマホ触ってた時とか、家で野球見ててちょっとお風呂入ってくるとか言ってお風呂入ってる間にあったのとか、そういうホームランだよね?」
「なんでそんな詳しいの」
「全部海くんが言ってたことじゃん。私が野球見ながらスマホ触って、そうやって何回もホームラン見逃してきたから。いつも怒られたし」
 こんな口調で話す人間だったか。明日実はバットを勢いよく備え付けのケースに入れ、ゲージを出た。僕に一瞥もくれず、受付カウンターに向かってずんずんと歩き、明日実を迎えた先ほどのアルバイト君が「ホームランおめでとうございます!お2人ともホームランなんてすごいです」と言った。私も彼も、彼女のホームランを生で見てないという意味では同じだ。でも明日実はにやりと笑い顔を見せた。
「お2人で撮らなくていいんですか?」
「1人でいいです」
 そう言って明日実は、1人でカメラに収まった。アルバイト君は察しが悪いのか、不思議そうな顔をした。普通そこは、あ、何かあったんだなと察して気まずそうな顔をするものだ。明日実はそこまでしなくてもいいのではないかと思うほどの、とびきりの笑顔だった。歯を思いっきり見せている。つられてアルバイト君も笑った。気持ち悪いなと思った。

 いつもけだるそうにして、今にもフィルムカメラのフィルターのようにかすんでしまいそうだった明日実があんな笑顔を僕に見せたことがあっただろうかと思ったが、今回のホームランのように、ただ僕が見ていなかっただけなのかもしれないと思った。男女関係に練習は存在せず、常に公式戦状態にあることを一体いつから忘れてしまっていたのだろうか。写真を撮り終わると、明日実は絵の具が黒に染まる如き勢いでその笑顔を消してしまい、そのままバッティングセンターの出口へ向かった。「明日実!」とようやく声が出るも、「曲を選ぶドン!」という声が重なって感情的な大声とはならなかった。明日実は一瞥もくれず出て行ってしまった。

 チャラチャラした男はようやくゲージから出てきて、その彼女と抱き合っていた。そしてキスをし始めた。舌を絡めた本格的なやつだ。私はぎょっとしたが、やはりそれに一瞥もくれないホームラン少年は再び打撃ゲージへと歩みを進めていた。

 明日実を追いかけて外に出た。外は暑かった。バッティングセンターは実はクーラーが効いていたことを知った。明日実、明日実と叫ぶ。今度は声が通っているはずなのに、彼女はずんずんずんずんと、国道沿いを進んでいった。僕たちは車で来たのに、ずんずんと進んでいく。その先に何があるというのか。そこには誰がいるのだろう。バッティングセンターから、ファンファーレの音と無機質なアナウンスがかすかに聞こえた。なぜか、明日実が歩く方角からその音が聞こえた気がした。

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