『aftersun / アフターサン』
暗室に入らない人生を過ごすわたしたちにとって、チェキを使ってみる行為は写真という事象に最も肉薄する瞬間だと思う。
ほんとうの「写真」は、スマホの「画像」のようにすぐに出来上がるわけではない。チェキ文化に触れてわかることだが、わたしたちの像は時間をかけて定着する。本作の中でも2人で写った写真が色を帯びていくさまにレンズが向けられていた。そうして色づく写真と同じように、私たちにとって親の実像もまた、年月が経てば経つほどその輪郭が明確になっていく。子にとっての親の認知が、偶像から1人の人間へ変遷していくさま、つまるところ「親も人間」ということ。それを知ることは成長過程において、例えば構築した思考力が時に親を凌駕したり、家庭以外のコミュニティで醸成した主義主張が親の持つそれと全く相容れないものとなるとき明るみになる。親は神ではなく同じ人間であること、それはわたしたちの胸を締め付けつつ、ある時は許し、しかしながらやはり呪いにもなる。
この『アフターサン』という映画の視点はあくまで娘のソフィーにあり、ましてその視点は11歳当時のものではなく、30を過ぎ、子供もいて、同性のパートナーとともに暮らしているソフィーが、かつてのバカンスで父が(時に自身が)回していたビデオを観て、想起した視点なのである。そのためソフィーは所謂「信頼できない語り手」であるし、印象的に挿入される父の深い憂鬱の描写——ましてそこに11歳のソフィーはいない——は、ソフィーが作り上げた像であると解釈するのが妥当だろう。父は具体的な姿こそ見せなかったが、一緒に歌えなかったことや誤ってソフィーを締め出してしまったことを何度も謝罪するし、大声で歌われるバースデーソングに複雑な表情を見せる。「なんでも話すんだ」とソフィーに語りかけつつも、それは自分も誰かに話したいことがあるのではないか?とか、30歳を過ぎたソフィーがその姿を観察すれば、彼の抱えていた憂鬱は想像に難くないだろう。
そう、想像。この映画はビデオという媒体から親の姿を見出しつつも、ただそれを懐かしむのではなく「親の姿を想像する」ことが主題なのだ。ラストの描写からしてカラムは亡くなっているのだろうが、あの真っ白な道はなんなのかといえばソフィーの心の中におけるカラムの居場所だろう。扉を開けると踊っている父親、それも楽曲が『Under Pressure』。憂鬱と重圧の中でもどうにか踊り続けたその笑顔のまま、ソフィーは父親を解釈することにした。
タイトルの「アフターサン」は紫外線を浴びたのちのケアをするアイテムのことを言うらしい。これも示唆的で良い。作中で親子が塗りあっているのは日焼けどめだろうが、今のソフィーに必要とするのは確かに「アフターサン」だ。終わった時間=カラムの人生を想像し、理解ではなく解釈すること。解釈、つまり自分で決めた部屋の中に親を収める行為を見ることはどこかわたしにとっては救いで、映画そもそもが持つ映像表現の素晴らしさも作用し、忘れられない映画の一つになった。
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