Never Ending
エンドロールを最後まで見た。これまで生きてきた中で初めて、それに違和感を覚えた。エンドロールが始まって一分間はギリわかる。どんな役者が出ていて、実はこんな役者がカメオ出演していて、実はあのぬいぐるみに声をあてていたのはあの超人気俳優だった…!とか。けれどそのあとのスタッフが羅列されているところ。いやもちろん、そのスタッフたちが一人でも欠けたら映画は成り立たないし僕の目の前にこの映画そのものが並ぶこともないから、彼らの名前がこうして画面の下から上へと移動していくことは絶対にあるべきことなのだということは承知の上で言うが僕には関係ない。まして今日見たのは洋画かつフランス映画で、もはやなんて書いてあるかわからない。読めない。読めなければ、古代エジプトの文字もキリル文字も英語も漢語も宇宙語も全部同じだと思う。その文字列が流れるさまを僕は真剣に見つめていたし、土曜朝9時上映開始のミニシアター、決して多くはない数名の観客もやはりそれを見つめていた。この時間は人生に必要なのか。そう思いながらも僕は今日も最後までエンドロールを見て、場内が明るくなって、ふっと現実世界に戻される。週明けの仕事のタスクや今日の晩飯、生きるために必須な案件たちが次々と思考へ侵入してくる。こうやって映画の終わりを知る。やっぱりここは現実だと知る。
しかし今日、僕にとって最も現実味のあるイベントは眼前に控えていた。11時半、神保町で待ち合わせね——
駒場真子。彼女。付き合って1年と2か月。「大事な話があるの」というLINEは一週間前に届いた。すぐにすればいい、明日でも会いに行くと言ったけれどこの日しか会えないと言って指定されたのが今日だった。僕は絶対に、「大事な話って何」と言いたくなかった。だから努めて事務的にスケジュールを設定することを心掛け、彼女が先の日程を求めたのなら速やかに応じた。僕たちは同棲をしなかった。けれど彼女は大抵僕の部屋で遊ぶことを求めていた。いつも23時に帰った。
土曜日11時半の神保町なんか、どこも行列必至に決まっていると思ったが、なぜかこの日は運よく2組の並び程度で中に入ることができた。「大事な話を並んでるときにされたらどうしようかと思った」と僕は笑ったが、彼女は何も笑っていなくて僕一人で笑う羽目になった。彼女は今まで、僕のために笑ってくれていたことを知った。
駒場真子は元来、トレンチコートなど着ない人だった。春であろうが冬であろうが、羽織るのはボアのコートで、記事が厚いか薄いかの違いしかなかった。僕は彼女の手や体にも触れたが、まず先にボアのコートにも頻繁に触れた。「それは私じゃないよ」と言うのが合図みたいになっていた。それから僕は彼女の髪に触れて、ようやく彼女そのものを抱きしめるに至っていた。だからトレンチコートを着た彼女にどう触れていいのか、さっぱりわからなかった。そもそも「大事な話」を眼前に触れられる箇所などどこにもなかった。
「いやー、思ってたより狭いね。別れ話には向かないねえ……」
真子は一口で水を飲み干してから言った。こういう、薄々そう、というか言葉に出さずともそうだとわかっていることが言葉になって事実と証明された時に鼓動が速くなることに名前はついているのだろうか。
「隣の人に聞かれちゃうからさ、また今度にしない?今日見た映画の話していい?」
「別れ話される日の朝に映画を見たの?」
「別れ話って確定はしてなかったじゃないか、大事な話なんでしょう?」
「そういうところが……」
「そういうところが何でしょう」
「いや、いいや。映画、何見たの」
「ハリポタ」
「え」
「ハリポタ第三章、アズカバンの囚人」
「いや、え、なんでハリポタやってんの」
「なんかたまたま再上映だったから。いやアズカバンが一番面白いからね?魔法の夢みたいなのが詰まっててホグズミードも出てくるし忍びの地図だって出てきてディメンター怖いけど守護霊の呪文は面白いし監督もあの作品だけ違う、『ROMA』でオスカー取った監督でさ」
「へー……そうなんだ」
僕はまた、彼女の真実に触れてしまった。彼女は僕のために笑っていたのだ。
少し後悔した。せめて、今日はすごく考えたうえでこの地にやってきた、という経緯を示せば、それは誠意になったのかもしれない。彼女はまさに「そういうところなのよ」と言わんばかりに、用意されたブレンドコーヒーを見つめ、ため息を大きくついてからそれを少し飲んだ。熱いので、今度は一思いに飲むということはできないようだった。
「まあ、つまるところ別れ話なのね。大智くんのことはすごく好き。今でも多分、好きなんだと思う。でも一緒に居たいとは思わなくなった」
「全然意味が分からん。すごく好きなら一緒にいたいものだろう?一緒に居たいと思わないなら、それは嫌いだってことだろう?」
「そうやって人間の感情全部、日付変更線みたいに区切ることができたらね。悩みも減るんだろうけどね。でもそれって面白い?大智くんはさ、いっつも絶対に答えを出そうとしてたよね。仕事のことだってさ、君が今の仕事に手詰まりを感じているならば絶対にこうした方がいいって、論文でも書くみたいにちゃんと論拠を集めてきた。普通彼女の悩みに対して、パワポをもとにした回答してくる彼氏いる?そういうところ面白いと思えたのは私の心に余裕があるときで、だんだん私も余裕がなくなってきたら、私が反論する余地なんてどこにもないくらいに用意周到な大智くんがさ、助けられてるはずなのに怖いって思った」
僕がその時に見た彼女の表情は、心より感謝している、といった類のものだった。
「僕は助けたいと思って、僕なりに真摯に最善を尽くして、君に向き合ったつもりなんだけどさ」
「それでいいんだよ、大智くんは何一つ間違ってない。そしてそういう大智くんのことを必要とする人が絶対にいるんだよ、でもねそれは私じゃない」
「……わからないな」
僕は未だにアイスコーヒーに手をつけていなくて、彼女に促されて初めて一口、飲んだ。話の内容に反してそれは口の中で爽やかに溶けた。
「そういう、全てのことを解決しようとするところはすごいことだけど、すべてのことが解決できなかったり、線を引けないということを知るべきだとは思うよ。偉そうにごめんね」
「よくわからないけど、僕は君にとてつもなく与えたつもりでいた。けれどどうやら僕は、君に何一つしてやれなかったということらしい」
彼女は何も言わなかった。僕はこう言って、少しでも否定してくれることを期待したのだ。しかし彼女は沈黙を守った。今日の彼女は初めて嘘のない彼女なのである。どうやら僕は本当に、彼女に何もしてやれなかった。
「——悲しいね。それでも1年間楽しかったのは間違いないから」
そう言って彼女は、机の上に置かれた僕の手を取った。そして決して思いが伝わりすぎないよう、海岸の砂でも持ち上げるような軽さでそれを持ち上げて「ありがとう」と言って笑った。
彼女は東西線に乗って帰るから、せめて九段下までは一緒に歩かせてほしいと僕は言った。「人生の中で最も会っていた人とこれから先下手をすると一生会わなくなるんだから、それだけ別れってグロいことなんだから」と僕は恋人の別れという事象がいかにグロテスクであるかということを必死に羅列した。「ほかの人見てるよ」と彼女は言ったが、しょうがないと言い承諾してくれて、僕たちは都道302号を歩いた。
「なんか、二人で見たよねこういう映画」
「え、僕ら二人で映画なんか見たんか」
「見たよー、ほらそういうところだよ本当に」
「えーなんだっけか、えー」
「あ、これ傷跡与えるチャンスじゃない?映画のタイトルは教えないから。これで君が次の恋をするまでは、少なくともずっとあの映画のことが頭の中から離れないだろうね」
彼女は今日初めてきちんと笑って、九段下の駅を指さした。
「じゃあ私ここだから」
「東京メトロを見てそんな嬉しそうな顔する人初めて見た」
「そりゃあ別れた恋人と二人で歩くことほど地獄なことってないよ」
「そんなん言ったってさあ」
「冗談」
「に思えないけど」
「私、大智くんが初めての彼氏だった。だからどこかでね、別れる時もロマンチックなんだろうなとか、そういう幻想を抱いていたことは自白します」
「自白て」
「でもね、まあなんというか実際にこの場に立ってみると――うん、グロいね、グロテスク。私たち、明日からどうなっちゃうんだろうね」
「そんなん言うならさあ」
「何でもかんでも理由さえ用意すれば覆せると思うのはやめた方がいいよ」
彼女は最後に少し笑った。けれどそれを笑っている顔だとは、僕は到底思えなかった。手を振り去り行く彼女を、僕はただ茫然自失として眺めているに過ぎなかった。
家に帰って、Netflixで様々な映画のラストシーンだけを次々に再生した。けれど僕たちの別れのようなシーンは出てこず、大抵もっとロマンチックなものがそこには描かれていた。別れた男女が再会し視線を合わせるだけですべてを分かり合うなんて映画もあった。僕は彼女との思い出の記憶をたどったがやはり思い出せることはなかった。「ハリーポッターとアズカバンの囚人」のイメージがひたすらに残った。人生は映画でも小説でもない。映画は映画で小説は小説なのだ。そのことがそもそもひどくグロテスクであり、ついにはエンドロールすら用意されていないことを僕は知った。映画で切り取られたシーンの先で、美化された場面を何度も再生しながら生きるのが人生だということを。
原案:back number - エンディング
次回は『はなびら』を原案とした物語です。
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