「正しくある事」

 ネットの発達で情報が簡単に手に入る様になった。これは一見すると、とても便利な事で、幸せな事です。「豊かさ」という象徴の一部であります。電子ってすごい。

 ですが。

 情報が多すぎるあまり、「正しくあろうとし過ぎる時」も多々あると思うのです。

「正しくない自分は、だめなやつだ。」
「できない、わからない、正しくあれない自分は、どうしようもないやつだ。」

 ギターレッスンという仕事をさせてもらって、20年くらい経ち、2000人以上の人と一緒にギターの練習をさせて頂きましたが、その中の多くの人が「弾けない自分である事の後ろめたさ」を感じている様な気がします。「最初は出来なくても仕方ない」とか、「いずれできればいい」とか、「今の段階では、出来る出来ないじゃなくて、わかるわからないだけ気にしていればいい」みたいな話をしても、なかなかストンとわかってはもらえません。

 しかし、こういう現象はギターに限らず色んな場面で起こっているような気がします。

 「出来ない自分は、恥ずかしいんだ。」みたいな。

 YouTubeを初めとしたSNSをしていると、色んな人からコメントをもらいます。ほとんどが嬉しいコメントなんですが、心無いコメントも少なからずあります。そういうコメントの多くは「こうであらなければいけない」とか、「それは間違っている」とか、「どれが正しくて、どれが正しくない」みたいな事だったりします。

 ふと、思うんですよ、「正しい」ってなんでしょうね。

 人によって、答えは千差万別だと思うんのですが、僕が思う「正しさ」というのは、「自分をちゃんと大事にしながら、周りの人間やお世話になっている人、大切な人と一緒に幸せに近づける行動を選ぶこと」なんじゃないかと思うわけです。だからやり方が一時的に間違っていたとしても、「継続」をする事が出来て、間違いに気がつくことが出来て、結果的に克服や改善が出来るなら、それでいいんじゃねーかなとも思うわけです。間違っても、「正しい事」で誰かをぶん殴って傷つける事じゃない。中途半端な正義で殴り合う事が「正しい」ではないと思うのです。

 でも、今のネット社会は、絵に書いたような「This is THE 正しい」が蔓延っています。一体誰なのかわからない匿名の人の心無いコメントならまだ良い方で、なまじ有名な人や実力のある人が、これみよがしに「これが出来ないのはおかしい」、「これがわからないのはおかしい」と叫んでいる場面もあったりします。そういう内容を少しずつ少しずつ目にする事で、「正しくない事は駄目な事なんだ」と、なんか刷り込まれている様な気がするんです。なんの気はなくとも、意図せずにそういう刷り込みをしちゃってる人も多いような気がするんです。

 「正しくある事の強要」は凄く暴力的。でも、ちゃんと「正しい」から、殴られた側は反論出来ない、受け入れるしかない、凄く苦しくてつらい。そういう「鬼の首を取ったようなナニガシさん」の暴力による息苦しさに悩んでいる人はいっぱいいて、それに悩んでいる事に自分で気付けすら出来なくてて、苦しんでいる人もいっぱいいる気がする。誹謗中傷による有名人のナニガシな悲しいニュースになっちゃうのも、そんな暴力による被害者さんの一部な気がする。

 「まぁ出来なくても、うまくいかなくても、間違っていたとしても、別に死にゃしないからいいか。」くらいの大雑把な心を持つことも、とっても大事な気がするんです。「今日も生きているから、まぁそれでいいか。」くらいな感じ。そうすれば、そんな暴力は一瞬で無くなるんじゃないかと。

 広い海に投げ出された一匹の魚は、潮の流れを操作出来ません。それと同じ様に世界という渦は凄く大きくて、とてもわたしたち一人ひとりの力でコントロールする事なんて出来ません。ですが、それぞれの魚が自分により良い場所に住み着いた様に、わたしたちも環境を選ぶ事は出来ます。魚は間違った海域に行くと秒で命を落としますが、幸いな事にわたしたちはどこに行っても、何をしててもまず死ぬことはないから、もう正しくなくたっていいじゃない。

 わたしは個人的に「自分の魂は自由でありたい」って思うので、「みんなの魂も自由であって欲しい」と思っています。とりあえず、生きてて色々と楽しくやっていたら、それでオッケーくらいで、いいんじゃないかなっていう。


おわり


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