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愛とはなんぞと問われれば

数年前のボーカロイドの曲で「愛とはなんぞと問われれば」という歌詞があります。

問われたら、なんて答えますか?


私は「否定しないこと」と答えます。

私の父も母も、私が盗みを働こうが、誰かをいじめようが、子供を妊娠しようが、妙な関係にはまろうが、誰かを殺したいほど恨もうが、それを否定はしませんでした。

それぞれ、ちゃんと相応のしっぺ返しを受けるわけですが、しっぺ返しを受けた感想に対しても、同じく否定はしません。

難色を示すことはあったと思いますが「それはおかしい」「絶対にダメ」ということは言わなかったように記憶しています。言ったとしても「私は、あんまりそれ好きじゃないかな」「みらいが幸せならそれで良いんじゃない」といった具合です。

その後は、飯はおいしく、風呂は温かく、みんなでテレビを観て、寝る。いつもと変わらない日常を作ってくれていました。

(もしかしたら、ダメと言われていたかもしれませんが、私が言うことを聞かなかっただけという可能性もあります…。)

私のどんな話も、おおむね聞いてくれてから感想を言う。
否定はしないけれど、起こりうるリスクは匂わせておいてくれる。

幼少期に、それはそれは、とてつもなく強い自己肯定感を育ててもらったと思っています。

それなりに大人と称される年齢になった昨今、父と母がしてくれていたことは、本当にすごいことだと思います。

26歳くらいまでの私は、そのすごさに気付かず、メディアや有識者、周囲の人間が植え付ける「これが正解」「こうあるべき」「ルールはこうだから」「絶対ダメ」等の「暗黙のルール」に、かなり縛られていたように思います。

縛られていることがダメということも、またありません。それが生き良い方もたくさんいると思います。

「暗黙のルール」を知らないまま、気付かないまま、好き勝手に振る舞うというのも違います。それでは社会が成り立ちません。

というか、どう足掻こうが、人は自分が決めたルールに縛られて生きています。「暗黙のルール」と表現しているものすら、絶対正解ではありません。ほとんど存在していません。何か解釈違いをしている可能性を捨てきれないわけです。なかなかに「自分ルール」なのです。

自分事、自分1人の時、1人だけで生きていく場合は、存分に「自分ルール」に浸れば良いと思います。

しかし、そこに他者が存在する場合は、一度ルールを捨てる勢いが必要です。なぜなら、自分の目の前に居るのは、ルールではなく、一個人です。

どこで誰の言葉だったか「人間は、似たような皮を被っているけれど、その中身は、全員違う星から来た宇宙人だ」という表現が好きです。

それくらい違う生き物なのですから、「自分ルール」で一個人を見ては、喧嘩も起きるわけです。

父と母は、私と向き合う時、ルールを捨ててくれていたのだと思います。ルールを捨てるというのは、かなり勇気のいることです。一度自分を捨てることと、少し近いかもしれません。

ルールというフィルターを介して、私を見る人の目は、私のことを見ていません。私の話が聞こえていません。それは、とても悲しい気持ちになります。

ルールを捨てて私を見てくれる人の前では「何を言っても大丈夫だ」という、無敵の安心感があります。もちろん何かを伝える際に、伝える側は、伝わるように、受け取ってもらえるように、相手が時間を割いて話を聞いてくれていることを意識して、言葉を尽くす必要があります。

自分ルールを捨てて、相手の話を本当に聞けていれば、大体の人間関係は容易いはずです。
人間関係が容易くない場合は、相手の話を、聞いているつもりが聞き流していて、自分ルールに当てはめて聞いているので、やっぱりそれは聞けていないのです。

相手の話を本当に聞いた後に、自分の解釈を伝える。自分の解釈を伝えた後、相手の解釈をまた受け取る。何回か往復すれば「じゃあ、ここまでの解釈を踏まえて、私たちはこうしよう!」という、次の具体的な行動に落ちていくはずです。

何が良い悪いでもないのですが「最近、人間関係がうまくいかないな〜」という時は、一度、自分ルールに相手をあてはめていないか振り返ってみると、何か変わるかもしれません、ね。

元々の曲の歌詞では「愛とはなんぞと問われれば、それは私と答えようぞ」です。
それくらいの自信を持てるような、愛のある人間でありたいものです。

なんて、京都からの帰りの新幹線で思う等。

そして、以下につづく。


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