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オウムとの暗い連続性暴く――吉田司『新宗教の精神構造』(角川書店、2003年)評

 サリン事件から8年、オウム真理教(アーレフに改称)とその土壌としての新宗教ブームに対する冷静な考察や批評がようやく姿を現すようになってきた。山形市出身のノンフィクション作家による本書も、そうした成果の一つだ。事件後、オウムをわれわれ「普通の日本人」の敵として市民社会に対峙(たいじ)させ、我々の正義と彼らの邪悪との深い断絶を強調するたぐいの言説が一般的だ。だがオウムもわれわれ同様、日本社会が生みはぐくんだ存在。決して他者ではない。こうした視点のもと本書は、われわれとオウムとの暗い連続性を周到に暴き出す。

 オウムとは、1980年代の新宗教ブームの申し子的存在。ではその新宗教とは何か。そもそも宗教とは「貧・病・争の克服」を課題とする共同体の機能的代替物である。戦前の近代天皇制、戦後の創価学会がそうだ。だが、高度経済成長により豊かさが達成されると、宗教の伝統役割それ自体が空洞化。多くの新宗教教団は、このアノミーを経済主義=宗教ビジネス化で乗り切った。幸福の科学しかり、法の華しかり、そしてオウムしかり。つまり新宗教ブームとは、飽食時代の「普通の日本人」が享受したバブル的な快楽資本主義の複製そのものなのである。
 
 だが連続性はそれに留まらない。オウムはやがて癒やしビジネスを脱し、天皇制乗っ取りを画策した大本教のごとき「怪物宗教」の道を模索。そうした「ミニ天皇制」的教団経営の過程で物理的・精神的な武装へと至る。著者はここにも我々の似姿を見る。それは90年代以降急速に軍事化していく日本国家(あるいは「聖戦」に傾倒する国際社会)の鏡像そのものだ。

 このように本書は、オウムとその土壌たる新宗教を、戦後日本の消費社会化、そしてまた軍事国家化の最先端に位置づける。宗教事象を「宗教史」の枠内に押し込めるのではなく、政治、宗教、経済といった諸領域の相克の歴史として描く本書の視座こそが、混迷の時代を読み解く最良のヒントを提供してくれるはずだ。(了)

※『山形新聞』2003年11月9日 掲載

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