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地方の在り方を明らかに――開沼博『「フクシマ」論:原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、2011年)評

「福島県いわき市出身、20代の大学院生による、福島県浜通り地方の「原子力ムラ」(原発を受け容れた地方自治体とそこの住民たちのこと)の社会学、基になっているのはなんと、3・11の直前に書き上げられたという著者の修士論文」…。

「原子力ムラ」の背景を、被災した人びとと同じ福島の出身で、当事者性をもつ若者が論じる――そうした話題性があるためか、重厚な研究書にも関わらず、本書はよく読まれ、あちこちで頻繁に話題にのぼっている。新聞や雑誌で著者の近影を目にする機会も増えた。だが、そうした消費のされかた――当事者の語る出色の原発本――に評者は微妙な違和感を覚える。

著者自身が明言するように、本書の目的は「原子力ムラ」の研究そのものにはない。目指されているのはあくまで、「フクシマ」という事例の分析・検討を通じて、近代日本における《中央/地方》の関係史、《中央》による《地方》支配のありかたを明らかにすることである。本書によれば、敗戦=終戦の1945年の前後で、日本社会は、近代化を進めるための資源調達先を、台湾や朝鮮、満州などの「海外植民地」から、東北や裏日本などの「国内植民地」へとシフトさせた。「フクシマ」の意味はそうした文脈のもとではじめて明らかになるという。

とすれば、本書を単なる原発本として読むだけでは不十分だ。そうした構えは、「フクシマ」の問題を福島の人びと(著者含む)のみに帰属させ、自分たちを非当事者と位置づけて無関連化してしまう。だが待ってほしい。

私たちが暮らす山形もまた、原発を抱える福島や青森、新潟などと同様、「国内植民地」として《中央》に低開発を強いられてきた《地方》である。「植民地」という言葉づかいの根底にあるのは「独立」への意志だ(その意味で本書は一種の「独立宣言」と読めなくもない)。要するに私たちは「植民地からの独立」という同じニーズを抱える当事者どうしである。来たるべき「独立記念日」のために、私たちもまた本書にならい、私たち自身のための「フクシマ」論、すなわち「ヤマガタ」論を書かねばならない。(了)

※『山形新聞』2011年11月13日 掲載

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