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これからのミュージアムを考える

前回、「これからの図書館を考える」と題して雑文をつづったが、そこでは、図書館ってそもそも何のためのもの? さらには、これからの市民社会にとって図書館ってどういう意味や位置づけをもつべき?ということが問われていると書いた。9月12日に配信したトーク企画「これからのミュージアムを考える」でも、念頭にあったのは同じような問いだ。すなわち、市民社会にとってミュージアムとは何であるべきか。

それぞれの場でアートと人びとと地域とをつなぐ実践にとりくんでおられる、イシザワエリさん(天童アートロードプロジェクト)、菊地純さん(ARTS SEED OKITAMA)、武田和恵さん(ぎゃらりーら・ら・ら)とのクロストークは非常に刺激的で、門外漢な筆者の知らなかったさまざまな事情――とりわけアートの世界のそれ――について勉強になったが、個々の論点を越えて問われていたのは、そもそもアートとは?ということだったような気がしている。

「アート」というカテゴリーにはすでに前提が入り込んでいるので、やりとりのなかで、よりしっくりくることばとしてしばしば用いられていた「表現」という語彙を以下では使うとしよう。では、そもそも「表現」の場やその産物は、何ゆえに私たちにとって必要で、それらを社会的かつ物理的に確保しなくてはならないのだろうか。なぜ「表現」とつながる機会を、自助に委ねてしまうことなく、わざわざ共助や公助で保持しなければならないのか。

私たちの社会は、こと文化や芸術については、「趣味」「余暇」「娯楽」といった領域へと紐づけ、位置づけることが通例となっている。ゆえにそこには、カネに余裕があったり、それを利用して何かしようと企てていたりするような資本や権力が手を伸ばし、その限りで支援するというありようが蔓延ってきた。ミュージアムも同様である。だが、それがカネになるとか権力のメディアになるとかではない、市民にとってのより重要な意味があるように思われる。

私たちがより自由に、のぞむ生きかたを求めるとき、それに適した環境を自らデザインし、自身の手でつくりだしていくことが可能な社会のありようを「市民社会」という。そこは、人びとの自由な語りや表現、対話や議論などが活発な、人びとの〈あいだ〉の空間である。文化や芸術、そしてその基底をなす「表現」は、そうした場が生成するための不可欠の触媒となるものだ。私たちが自由に生きるためにこそ、それらは欠かせないものなのである。(了)

『よりみち通信』14号(2020年10月)所収

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