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社会の「底」にあったもの

「池の水を全部抜く」というテレビの番組企画がある。文字通り、地域にあるため池とかお堀とかの水を全部抜いてみたらそこにびっくりするものが沈んでいた/棲息していた!――という企画で、新庄でロケが行われたときのものを先日、入った蕎麦屋のテレビでたまたま目にした。何が沈んでいたのかはさっぱり覚えていないが、面白いなあと感じた感情だけはうっすら残っている。

この数か月、新型コロナウィルス禍のもとで生じているさまざまな事態が日替わりで次々に明らかになっているが、それらの報道に接して感じるのは、上記の「水を抜いてみたら、底はこんなだった」というのに近い驚きだ。これが私たちの社会の「底」だったのかという感じ。例えば、4月の自殺者が例年に比べ少なかったこと。学校や会社への通勤・通学がその数値を跳ね上げていたためだという。

ここに、私たちの社会のひとつの「底」が垣間見えるのだが、緊急事態宣言の解除とともにそれを再び濁った水で覆ってしまうのはもったいない。どのみちウィルスの攻撃は波状的に続くのだ。とすれば、この新たに可視化された現実に蓋をして隠してしまうのではなく、それらを新たな前提に、アフターコロナの社会のかたちをより生きやすいものにするべく考えていくべきではないか。

ここでこだわってみたいのは、通勤・通学を前提としない学校や会社のありようだ。すなわち、在宅をベースに、出勤や登校をオプションとして位置づける学びかた/働きかたである。これに関しては、在宅ワークや通信教育、ホームスクールなどのとりくみが局所的にではあるが現に存在しているため、先行するそれらに学んでさえいけば社会実装はそれほど困難ではなかろう。

問題は、そうなったときの家/家族のありようである。戦後日本においてそれは、当初そなえていた意味や内実を喪失し空洞化した虚ろな場所へと変貌してきた。メンバーそれぞれが居場所をその外に見出し、いっしょに居る時間が少ないからこそかろうじて成り立っている共同体。私たちは互いに異なりすぎる世間を生きているため、話題や文化すら容易にすれ違う。

コロナ禍が要請するStayhomeは、そうした所属する文化圏を異にするばらばらな人びとをひとつの空間へと縛りつける。住宅や家屋はそれに適したつくりにはなっていないため、ストレス過多となろう。異文化とどう共住するか、そのための空間デザイン、コミュニケーションデザインとはどのようなものか。それを探り、つくりだしていく試行錯誤が、私たちそれぞれに求められているのである。(了)

『よりみち通信』10号(2020年6月)所収

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