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島根県松江市 信楽寺(しんぎょうじ)と瀧川一益について 

島根県松江市 信楽寺(しんぎょうじ)と瀧川一益について 

「信楽寺 タウンレポーター塩見惣ヱ門(斎藤研也さん)松江市天神町  瀧川一益」

松江、茶の湯、大名という三つの言葉を並べれば、誰しも不昧公(七代藩主、松平治郷公)を思い浮かべることでありましょう。
しかし、この三つの言葉に当てはまる人物が実はもう一人。
瀧川一益という、織田信長の四天王の一人に数えられる戦国大名がおりまする。
歴女と呼ばれる方々には「前田慶次郎」の出身の一族の長、とご説明するほうが分かりがよいかもしれませぬ。
この一益、信長の四天王であり、戦に明け暮れていたはずの武将がなぜ、茶の湯との関わりがあるのか。それを端的に示す書状が今に残っておりまする。

時は天正十(1582)年、信長による甲州征伐、武田勝頼を討ち取った後のこと。一益はその際の活躍により、上野国と倍濃の郡を与えられたものの、「信長から小茄子 (安土名物とも呼ばれた茶器)を拝領しようと思っていたか、上野のような遠国に置かれてしまい、茶湯の冥利ももはやつき果てた」と書状にしたためております。つまり、「一国一城の主」となるよりも茶の湯の名器を所望した、ということ。不昧公が茶の湯に造詣の深かった大名とするならば、一益は茶の湯に熱情を燃やした大名ということができましょう。

では、信長の配下にあり、東に所領を持った一益と、松江に何の関係があるのか。

実はこの瀧川家の墓所が、竪町にある信楽寺にござります。

江戸時代になり一益の子孫が米子の中村の氏の配下にあった、あるいは別の子孫が鳥取橋津村で医業を営んでいた、とされることから、一益の墓所が松江にあるのも縁なきことではありませぬ。また一益が背中に背負って運んだと言われる阿弥陀様と、その仏様を入れていた厨子が信楽寺には残されておりまする。  

そしてこの信楽寺、堀尾の城下町普請によってこの地に移り、直政公の夢の中のお告げによって聖徳太子を祭る、城下町松江の二人の「初代」に関わる寺院でありまする。

全国でも珍しい聖徳太子「堂」、そしてお堂の中に安置される像は、五十年に一度、御開帳され、次回は2021年の予定にござりまする。

聖徳太子はその万能(マルチ)さから職人の守り神であり、また門前町の商店街の方々も厚く信仰しておられまする。
瀧川一益のころ、武士は概ね半農半武であったことを思い返せば、ー寺院にして土農工商それぞれの方から、そして「信楽」とは「深く信ずる」の名前のとおり、信を置かれているとも言えましょう。

信楽寺のある竪町は水運・陸運の要所。古くから多くの物と者が行き交った、縁の交差する街。今なお、当時をしのばせるその商店街。

一益が所望してやまなかった「天下の逸品」が「タテ町新名物」として平成の御世によみがえる。
そんな歴史と文化のご縁を感じさせる町にござりまする。

写真:信楽寺山門。山門をくぐった左手に、瀧川一益(瀧川家)の墓がある。

*因みに聖徳太子のお誕生日と僕は同じ誕生日です。一度に10人の話は聞けません。😂

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