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知を知る。

「知る」ということへの、あの抵抗感は何だろう?

これまで自分が知らなかったことを知ることに、なぜあんなに抵抗があるのだろう・・・と考えてみたことがある。

何かを知るということは、
「知らなかった過去の自分」
と、
「知識を得た自分」
の分断になってしまわないか?

そして、知らなかったことへの羞恥の気持ちや、これまでの自分が、何かを得られなかったという損失を認めざるを得ない自分への蔑み。

色々な負の感情が生まれることへの恐怖心なのではないかと考えた。

私はそうだった。

とにかく、人から話を聞くのが怖かった。

知らないことを、見聞きするのが怖かった頃があった。

とかく新しく人と会うとか、転職とか、もうそれは恐怖でしかなかった。

しかし、本だけは読んだ。常に2〜3冊は手元に本があり、同時進行で読んでいた。
本は自分を馬鹿にしない。

本を読むうち、その本に時々、知っていることが書かれていることに気づいた。
「このことは、あの本にも似たようなことが書かれていたな」
という感じだ。
「知」の世界が、「無知」の世界へとドロリと流れ込み、混ざり合った感じがした。

それを機に、仕事を辞めてみた。
両手に抱えた荷物をひとつ、降ろしてみたわけだ。

すると、混ざり合った「知」と「無知」の世界がさらに混ざり合い、完全ではないけれど、マーブル模様のように入り乱れている。

私の知っていることの周りには知らないことが流れ込み、その外側には知っていることが押し寄せてきている。

知識のマーブル模様は、常に粘っこく、ゆっくりと完全に混ざり合うことなく水面を揺らいでいる。

全てを知ることは出来ない。知らないことを知っていることで囲み、知っている風を装う。

知ることは、無知を知ることなのだと知った。

過去の無知だった自分を蔑むことをしなくなったのは、知らないことは永遠に知らないままの事がほとんどだということを知ったからかもしれない。
つまり、完全に知るということが不可能だと知って、開き直ったからかもしれない。

もし、知った気になってしまうのだとしたら、自分の知りたいことを知ったことへの慢心でしかない。
レコメンドされた情報に騙されているだけだということを知らないだけだ。

今は情報が溢れている。
けれど、その情報はパーソナライズされた、「私の知りたい情報」の小さな池を泳いでいるに過ぎない。

自分の興味のないことを知ろう。

誰かが持ってきた、面倒臭そうな、厄介な、興味が持てなさそうな話こそ、
自分を成長させる種だということを知ろう。

SNSがなかった頃のことを思い出してみれば、皆当然にそれを許容していた。
飲みに行けば、他人の趣味や嗜好、仕事や上司、色々な情報のカオスの中に身を置くことが出来た。
そこから、新しい見聞が生まれ、興味を持ち、思考を広げることが出来た。

しかし今は、最初から興味のある情報しか入ってこなくなった。
自分が取りに行けるのは、知っている情報だけだからだ。

知らない情報を、一方的に運んできてくれる幸運の青い鳥は、
もはやTwitterでも役立たずだ。
あの青い鳥も、結局はレコメンドした情報を、さも世界の常識のように伝えてくる。

知らないことを知ろう。
知識の池にマーブル模様を描こう。

そこから流れ出す先が広い海だとしたら、
それこそが、あたらしい世界への一歩だ。


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