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【読み切り】「立花は神様」責任を持つ辛さ

最近の読み切りはレベルが高い作品ばかり…。『最終兵器彼女』的な、世界のために戦う少女と、それを応援する男の子の話。以下、好きだったところ。

感謝をしない市民のために頑張ることの酷さ

力を持ったヒーローが、市民のために、自分を犠牲にして戦う話では、感謝の有無が重要だ。感謝してくれる善良な市民がいる(これを善良とみなすかはさておき)。その一方で、感謝をしないで自分の都合を押し付ける醜悪な市民もいる。

木本ミキ「立花は神様」

エンタメでたまに出てくる、こういった配慮のない第三者を見ると、自分の感情が動く。怒りを感じる。こういう人いるよな、って思う。

こういう自分から見て、救いたくないような人間がいても、ヒーローは戦うべきなのか?

自分を犠牲にして、他人のために頑張る行為というのは、社会では「良し」とされている。集団を維持するためには、そういった個体が多いほうが、うまく回るからだ。そうやってプログラムが組まれているのだろう。他の生物にはあまりなさそうな特徴である。

つまりそれは幻想に支えられていると言える。その幻想を支えるのは、救う価値のある他者・市民・国家という、思い込み。

では、その他者が、救うに値しないものだとしたら?一方的に自分から何かを奪うだけの存在だとしたら?自分の精神を殺してでも、他者に奉公することは、自分の人生のためになるのか?

社会の潤滑油として物語を捉えるなら、「それでもヒーローは、社会のためにがんばれよ!結果、報われるぞ!」とするのが、"正しい"話なのだろう。

一方で個人の感情に寄り添う物語もある。「与えられたヒーローという立場なんて知るか!私は私のように生きる!」という道だ。快楽を感じるし、「個人の気持ちを尊重する」という考えに、現代の私達は惹かれる。

『進撃の巨人』のヒストリアや、今作の立花さんのように、大きな力と責任を持った人物が悩むのは、青少年だからだ。悩む存在を青少年と呼ぶ、とトートロジー的に考えても良い。

通過儀礼を経て大人になったら、その悩みに結論を出さなければいけない。何かを選ばなければならない。仮にヒーローがプロフェッショナルなら「とはいえ、仕事だし、役割があるし」と納得して淡々とこなすだろう。究極系はゴルゴか。

とまれ、「押し付けられた役割に、疑問をいだき、苦痛を感じる」瞬間こそが、自分が見たいタイプのドラマなのだろう。


ヒーローの力と責任論

木本ミキ「立花は神様」

このコマも非常に好み。一方的に寄せられる期待と、本人の辛さを知らずに、一方的に軽々しく放たれる「がんばれ」。責任を持たない風船のような自由さで、人々は外から観測するだけだ。一方で苦悩する側は、責任という重力に囚われる。

「目」が飛び出ているのが、おどろおどろしくて良い。物理的にも、精神的にも、体を保つギリギリなのか。

主題としては「特別と普通」の話なのは最後まで読むと理解できる。ただ、私個人の趣味趣向としては、このヒーローが心折れるあたりの表現の豊かさに惹かれたし、一番おもしろかった。

もちろんその後の主人公来て、復活して、敵を倒す王道展開も完璧。

たった一人でも自分のことを「普通」と思ってくれて、同じ立場で接してくれる人がいれば、それで頑張れる、というのは、力を持つものの悲哀にたいする一つの伝統的な答えなんだとも思った。


余談

ヒーローの強度を試す話も読んでみたい、とも思った。例えば『進撃の巨人』(読みすぎて自分にとってエンタメデフォルト値になっています、頻出ですが、ご容赦ください)では、死んだ誰かとの約束を信じて土壇場で頑張っていた。

もしも生きていなかったら?パターン以外にもあるだろう。

自分を信じてくれる誰かが、実は他の人も信じていたら?

裏切ってきたら?

自分の期待と違う形で自分を愛してくれていたら?

それでもなお、信じることはできるだろうか?

あるいはそれを経て、ヒーローは、ヒーローになっていくのか。

「愛する誰かがいるから頑張れる系エンタメ」と「愛する誰かが"いた"から頑張れる系エンタメ」は、肌触りが変わりそうだな、と思った。


そういえば、以前書いたスパイダーマンの話でも「力と責任」周りに着眼してしまった、と思い出す。強い人物が、頑張る理由に揺れる話。これが、個人的な好物です。




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