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【ショート・ショート】混沌の海へ

 男と女の性差について語ることは、完全にタブー視される世の中になった。性的マイノリティーやトランスジェンダーも含め、いや含めなくとも、実にいろんな男がいて、いろんな女がいるものだ。

 だから黒崎花がさっきから、ぐるぐるぐるぐる考えていることなんて、まるっきりナンセンスなのかもしれなかった。

 それでも例えば、AとBがいて、AとBがどう違うのか、なぜAはAであり、BはBなのか考えてしまうのは、人間のさがであり、根本基本の部分だと思うのだ。

 AとBが違うと認識しなければ、すべての物事は混沌の海に沈むだろう。それはきっと獣の世界だ。

 猫と犬がどう違うかを、言語的に説明するのは意外に難しい。

 身体的特徴やら、その能力、果ては系譜までさかのぼって説明を試みようとしても、なかなかうまくいかない。実にいろいろな猫がいて、いろいろな犬がいるのだ。

 それでも目の前の一匹を、犬か猫か言い当てるのは、びっくりするほど簡単なことだ。間違うことは、ほぼないだろう。

 花はキリスト教徒じゃないけれど、アダムとイブの食べた知恵の実は、人間を混沌の世界から掬い取った。それが「罪」だというのなら、文明は永遠に生まれなかったに違いない。

 ここまで考えてみて、花はいっそのこと、世界を混沌の海に沈めてみたくなった。

 すべての境界線が失われた世界。それはどんな世界なのだろう。きっと、念じさえすれば、できるはずだ。

「きゃあ!」
 と不意に叫び声が聞こえた。
 隣を見ると、中村夢子ちゃんが、便座に腰を掛けたまま、こちらを睨んでいる。

 花の念により、トイレとトイレの間の個室の壁は消え、ドアも消え去ってしまっていた。トイレットペーパーのホルダーだけが、宙に浮かんでいるような状態だ。

「先生!」
 夢子ちゃんはトイレに腰かけたまま、外を通りかかった内藤順子先生に向かって叫んだ。
「黒崎さんが、また変なこと考えてます!」

 内藤先生は、トイレの入り口に立ち止まり、
「黒崎―。変なことばっかり考えちゃだめだぞ。時と場所を考えなさい。」
 と注意して去っていった。

「はあい……。」
 花が渋々返事をすると、トイレの個室の壁は、元通りになった。

「もう!」
 と言いながら、夢子ちゃんが足早に出ていく音が聞こえる。

 花は考えるひとのポーズで便座に座ったまま、なんだかんだで、ここが一番考え事しやすいんだよなあ、と思っていた。

〈おしまい〉

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