インドの世界選手権の話

 筆者がWBPFで仕事をしていた時の話である。リクエストがあったので書こうと思う。

 そもそもこのWBPFという組織はABBF(アジアボディビル連盟)がIFBBから分離独立した上で、ヨーロッパ各国とアフリカを巻き込んで新たに立ち上げた団体である。ABBF自体はそのままの体制で残してあったので、非常に歴史がある。

 IFBBもアジアがごっそり抜けてしまったので対抗してAFBFなる組織を作り、第50回アジア選手権なんてのを開催していたが、AFBFは2008年あたり発祥なのでこれは嘘である。

 ABBFはアジアに強い基盤を持ち、また競技人口で南米、アメリカを遥かに上回る。そもそもアマチュアで強い国は昔から中東に固まっており、エジプト以外の中東は殆どアジアなので、IFBBにとっては良い選手をごっそり引き抜かれた形であった。

 前置きはここまでにして、このインドの世界選手権の様子でも振り返るとしよう。当時筆者はウクライナに住んでいて、ビキニ、フィットネス、フィギュアの選手をコーチしていた。

 この年は日本からの選手は二人しか居なかったが、ウクライナのほうの選手のコーチングで忙しくヨーロッパを転戦していた。ちなみに筆者がウクライナで教えていた選手はWBPFだけに留まらず、NACやWABBA,IFBBにも挑戦していた。

 こんな糞忙しい状況だったので筆者はこの年は選手として出る事は諦め、コーチングに専念する事にしたのである。

 インドという国は何もかもが不確かである。例えば同じ食材が毎日手に入るわけがないし、ジムがいきなり閉まったり、ずっと停電が続いたり、断水したりする。インドで調整するのはかなり難しい。地元に協力なサポート体制を構築しない限り不可能である。そう考えた筆者は自分が教えていた選手達をまずタイに集める事にした。

 タイのパタヤで調整し、ギリギリでインド入りして一気に勝負をかけるという作戦である。タイでの調整は順調だった。このままいけば三名はメダルを取れるかな、という感じであった。

 そしてインドへの移動である。ムンバイでの開催だったので、安い便でチェンナイから入るなんてケチくさい事はせずにいきなりムンバイまで飛んだ。実はこのバンコクームンバイ便は非常に割高で有名なのだが、一年に一度の世界選手権である。これを惜しんでいたらメダルは取れない。

 まず最初に入国審査で非常に手間取った。ビザも事前取得してあるし、我々日本人はアライバルビザが使えるので一時間もかからない予定であった。しかしさすがインド、イミグレの職員がサボりまくってて全然働かない。

 職員は30人くらいいるのにレーンは二つしか開いていない。そしてこの大会に参加する他国の選手が集団で同じ便に乗っていた。もうイミグレ職員はめんどくさいから逃げの一手である。

 二つのレーンは100名を超える選手達の長蛇の列。このバンコクームンバイ便で入国してきたのはマレーシア、ブータン、マカオ、香港、の選手団である。そして我々のチーム。全員がパスするまで4時間も掛かった。

 やっとの事でイミグレを突破し、空港に迎えに来ているWBPFのオフィシャルのバスに乗る。そしてムンバイ名物大渋滞である。最初は選手登録を行っているリーラというホテルに向かった。

 そしていざホテルの選手登録会場に着くと、他国の選手団が疲れた顔して床に寝ころんでいた。曰くもう8時間も待っているらしい。インドのオフィシャルはまだ姿を見せていない。

 我々も同じように待つハメになり、そこから5時間待った。やっとオフィシャルが来たと思ったら「お前らここで何をしているんだ?」と言い放った。各国選手団ブチ切れである。

 「お前らが来ないからここで待ってるんだろうが!」と怒り、早く指定のホテルまで選手団を送る手配をするよう、チェタンというインドのチェアマンに文句をつける。チェタンは電話を取ってあちこちに電話し始めた。最初は何をしてるのかわからなかったが、どうも様子を見ているとホテルに電話を掛けて、どのくらい部屋が空いているか聞いているようだ。

 当然断られまくる。当たり前である。一つの国で20-80名の大所帯なのだ。というかこういうのは事前に予約しておくのが当たり前なのだが、インドという国は「行く行く」と言っておいて来ないというのが普通なので、確実に目の前に姿を見せるまで行動を起こさないのである。尚これはインドに限った話ではなく、マレーシアも同じ感じである。

 散々電話で揉めた後、いくつかのチームは別々のホテルに泊まる事になってしまった。一番怒っていたのはマレーシアのチームで、「ホテルが別々になるとチームミーティングが出来ない!」と言ってキレていた。当たり前である。

 ここまで所要時間8時間。空港パスの4時間と合わせて12時間も食事を取っていない。筆者は役員だったのでそのままこのリーラというホテルに泊まる事になったが、日本のチーム、ウクライナのチーム共にこのリーラからバスで3-6時間ほど掛けて別のホテルに行ったようである。

 しかも目的地の割り振りもせずに適当にバスに乗せて降ろすという方式を取ったため、最初にイランのチームをムンバイの北で降ろして、次はタイのチームをムンバイの南で降ろして、その次はウクライナのチームを……なんて具合でやったようである。同じ道を何度も往復し、このリーラを跨いで東西南北に奔走したようで……

 筆者はこの時点で究極に疲れていた。選手はもっと疲れていたであろう。やがてポールチュアとババーが到着した。トップが来た途端にさっきまでのグダグダが嘘のようにインドのオフィシャルがよく働く。駄目だこいつら……と思った。

 そこから三日目の計量までは特に何もなかった。一応アスリートミール付きなので各自ある程度の調整は出来たようである。そして悪夢の四日目を迎える。

 

 四日目、この日はフィットネスとビキニがあった。我々役員団とオフィシャルはバスでムンバイのエキシビジョンセンターへ向かう。ところがバスの運転手とチェタンが何か揉めている。インドの場合州ごとに言語が異なるので、出稼ぎ労働者であろうバスの運転手とチェタンは英語で会話している。

 なんと、バスの運転手が道をわかっていない。うわーさすがインド。全部ぶっつけ本番なのである。ドバイのホセインがグーグルマップを使い、事なきを得た。そしてエキシビジョンセンターへと入る。だがオフィシャルの案内役がやたらと回り道をする。おかしいなと思って見ていると、こいつエキシビジョンセンターの中を知らないというか、初めて来たようだ。

 これにはインドのオフィシャルですらブチ切れである。そして会場のあるホールに到着。何もないだだっ広い空間であった。あれ?ステージどこにあるの?

 なんとステージはまだ作られていなかった。あちこちに木材と釘が落ちている。これプレジャッジどうすんだよ……と思って見ていると、ババーとチェタンが何か話し合って、とりあえずステージの骨組みが作られた。そして審査開始である。え?嘘でしょ?ライトは?

 「予選だしビキニとフィットネスだからオッケー!」みたいな事を言っていたが、これのために1年掛けて準備してきた選手達はたまったものではない。筆者は汗だくで裏方の手伝いをし、なんとかライトは準備できた。よかった、これで最低限の審査は出来る。

 ここで苦労したのは選手の案内とパンプアップである。何せそこらじゅうに木材の破片と釘が落ちている。選手はヒールを汚さないように持って歩き、裸足でパンプアップを行いながら移動する必要がある。そして殆どのオフィシャルは女のカテゴリなんてどうだって良いって感じで知らん顔である。

 筆者はウクライナのオフィシャルのタチアナと共に選手の導線の部分を箒で掃いて掃除した。これでなんとか最低限の準備は出来た。滅茶苦茶疲れていたが、今度は選手のパンプの様子を見たり、カラーの具合を見なければいけない。

 ちなみに日本人のイメージと違ってヨーロッパの女はメンタルが弱く、本番前に泣き出したり、いきなり諦めたりする奴が多いので精神的ケアもしつつカラーリングやパンプの指導をしなければいけない。滅茶苦茶疲れる。だが苦労の甲斐あってなんとか全員予選突破する事が出来た。

 昼食休憩を挟んで午後の部に移る。ステージを見ると急いで後ろの壁と両脇にスポンサーロゴを収める柱、それからバックモニターを作っていた。あのさあ……

 昼食に弁当が出てきたが、ピュアベジである。肉はない。キレそうであった。こうして地獄の四日目が終了した。

 そして五日目、この日はマスターズとウィメンフィジークの決勝があった。午前中に筆者が面倒を見ている選手の出番は無かったので、のんびりできた。昼休憩中にようやくバックモニターが完成した。

 尚この日、フリーポーズ用に用意したCDがうまく再生されない、という事だったので筆者のUSBメモリにあったバックアップをオフィシャルに渡してくれと言われた。非常に嫌な予感がしたが、「俺に任せておけ!大丈夫!」とオフィシャルの一人が堂々と答えるので渡した。ちなみにこいつに二度と会う事はなかった。このUSBメモリはケーブルも兼ねていて、PC間でファイルを送受信出来るというすぐれものだったのだが、見事に無くす事となった。そしてこのケーブルは規制に引っ掛かって二度と販売される事はなかった。

 大会自体の進行は特に難はなかった。予定通り終了し、それぞれの選手はそれぞれの結果を出せた。そしてホテルに帰るバスに選手を乗せる。しかしどれだけ待ってもバスが出発しない。

 おかしいぞこれ、と思ってオフィシャルの一人を捕まえて説明する。すでに二時間も待っている。タイのチームなんかは全員で来てその日出場する選手の手伝いをしていたので、六日目つまり翌日に出番のある選手は早く帰らないとコンディションが崩れてしまう。

 するとこのオフィシャルの奴、その辺のベンチに腰かけている奴に片っ端から声を掛けて、「お前バス運転出来る?」と聞いている。そのうち一人が「出来る、任せろ、サー」と答えたのでそいつに現金渡してバスまで案内していた。マジかこれ。

 これもしこいつがハッタリで事故ったり、無責任に途中で逃げたりしたらどうすんの……筆者は2012年にゴアで長距離バスの運転手が逃げて、高速道路で10時間も置き去りにされた経験があるので非常に警戒した。

 筆者はタイのチーム、ウクライナのチーム、イランのチームにそれぞれ説明して、ちゃんとした運転手を探すべきだ、と言ったがタイチームのキレっぷりが半端ない。「GO!!GO!!」と叫んでいて抑えようがなかった。そのままバスは出発した。


 筆者はホテルが違うのでこのバスには乗っていないが、後で聞いた話だと運転しだしてから「俺ムンバイの人間じゃないから道わかんない。ホテルどこ?」とか言い出したらしく、到着まで4時間を費やしたらしい。


 で、いよいよ最終日の六日目である。インドの人って本当にボディビル以外どうでも良いと思っているみたいで、最終日はボディビルだけで纏められていた。本来は四日目にマスターズと軽量級、五日目にジュニアと中量級、六日目に重量級とオーバーオールと決まっているのだが、インドの大会は六日目にマスターズとジュニア以外のボディビルすべてが纏められ、女のカテゴリは皆無だった。

 大会会場は最初はガラガラであった。ポールチュアが審査員やれとか言っていたので、疲れそうだがまあなんとかなるだろう、とタカをくくっていた。しかしインドの選手が出てくるのは75kg級あたりから、いきなり混み始めた。用意されたシートは全部立ち見になっているし、舞台袖、シート両脇ももう人のごった煮。歩けない。

 筆者はどうせ人来ないだろう、と思って役員席から離れていたのだが、戻れなくなってしまった。MCが「ミスタータカシイシハラ?」とコールしている。いや、戻れないんだよ。人が多すぎて。

 筆者は結局ここから役員席に戻れる事はなかった。ちなみにこの大会、異常なレベルで、出場者も非常に多かった。尚外れのホテルに回された選手たちは食中毒を食らって、舞台裏で吐いていた。なんかもうすべて滅茶苦茶だったね。

 シートの外側から撮影した80kg級。筆者が撮影できたのはこれだけである。この後はもう人が通勤ラッシュの山手線状態で、とても無理であった。

 FIN



 

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