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日経ビジネスのインタビュー バックナンバー Vol.058

日経ビジネスのインタビュー バックナンバーVol.058


ここに掲載しているのは、管理人・藤巻隆が携帯サイトで運営していた当時のコンテンツです。

2007年1月8日号からスタートしています。1カ月分毎にまとめてあります。

途中、数件記事が抜けている個所があります。データを消失してしまったため再現できません。



✪ 2011.10.03 (No.1)<239>
技術革新、日本とともに
ジェームズ・マックナーニー(W.James McNerney.Jr)氏
[米ボーイング会長、社長兼CEO(最高経営責任者)]

(次世代旅客機「787」は)半世紀以上前に米ボーイングが投入した本格的なジェット機「707」以来となる、最も革新的な飛行機です。航空会社には劇的な経済性と生産性をもたらし、長距離を飛べるのに環境負荷は大幅に軽くなります。燃費性能はこれまでより20%低減されます。

日本の企業はサプライヤーではありません。パートナーです。彼らの力なくして、今回の革新的な技術は生まれませんでした。例えば三菱重工業は主翼の生産を担当しています。とても構造が複雑で、しかも全く新しい複合材を採用しました。三菱重工の力がなければ、できなかったでしょう。ボーイングだけでなく、日本とともに成し遂げた技術革新です。

パートナーを選ぶ時には国や文化は関係ありません。互いに技術革新と競争を続け、その成果として最高の飛行機を生産できるなら、ボーイングと日本企業の関係は永遠に続きます。

企業が人によって成り立っていることは変わりません。企業トップに課せられた第1の役割は、優秀な人を見つけ、成長させ、彼ら自身に成長を実感させることです。大企業にとっては挑戦とも言えますが、それが私の最も重要な仕事です。私はよく言っているのですが、人が成長すれば企業も成長していきます。人が中心にあると、私は信じています。

空洞化は大きな問題ではありません。大切なのは教育です。教育によって水準の高い労働者を育成できれば、世界で競争力を維持できます。優秀な従業員を育成できて、彼らがさらにほかの人を教育できるなら、すべての仕事を日本で抱え込む必要はありません。教育が行き届かなくなれば、空洞化にかかわらず仕事を失います。その方が問題です。


✪ 2011.10.10 (No.2)<240>
研究者を「憧れの職業」に
山中 伸弥(やまなか・しんや)氏
[京都大学iPS細胞研究所長]

日本が生きていく大きな道の1つは科学技術立国だと考えています。研究者や技術者はみな、科学技術立国たる日本を背負っているのだと自負しています。若くて柔軟な人が次々と研究に従事するようになれば、もっと伸びていくでしょう。

ただ、理系離れは深刻です。日本では研究者の地位があまりに低い。若い人たちに研究者が魅力的な仕事に見えていません。このままでは担い手がいなくなってしまうと懸念しています。

米国は日本の逆です。医師よりも研究者の方が社会的地位が高い。ハードワークなのは日米同じですが、ちゃんとした家に住んで、ホームパーティーを開いて、楽しく暮らしている人が多い。給料そのものも高く、ベンチャー企業とのつながりも強い。ですから、米国では研究者が憧れの職業なのです。

中村先生(中村修二氏、青色発光ダイオードの開発者、現カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授 注:藤巻)は勇気を持って、当然の権利を主張したと考えています。その彼が、今は米国で教壇に立っている。日本人としては寂しいことです。すごい技術を開発した研究者に、日本の若い人たちは学び、後に続くことができたら、どれだけ素晴らしいことか。

研究は、最初から社会の役に立つようにしようと意識しすぎると、浅いものになりがちです。みんなが実用化間近の研究ばかりやり出すと、将来のイノベーションの芽が摘まれてしまいます。


✪ 2011.10.17 (No.3)<241>
素材を制し、社会を制す
日覺 昭廣(にっかく・あきひろ)氏
[東レ社長]

今では、繊維事業は60%が海外生産になりましたし、フィルム事業の海外生産比率も80%まで上がりました。会社全体の海外売上高比率も45%に達しています。その結果、為替変動にはかなり強い体質になりました。事実、1円の為替変動に対して、営業利益の変動幅は4億円程度まで低下しています。

国内の役割は、研究開発を続けてハイエンド製品を作り、生産技術を確立して現場力を強化すること。一方で、市場が拡大して生産量が増えている製品は、参入者の増加で価格が下がるので、コスト競争力に勝る韓国や中国に持っていく。国内と海外の切り分けを簡単に言えば、こういうことです。

韓国は大統領以下が強烈な危機感を持っています。どういうことかと言うと、韓国には素材産業や部品産業がありません。サムスンが気を吐いていますが、使っている素材や部品は日本企業が中心です。日本に対する韓国の貿易赤字が大きいのも、日本から輸入しているからです。

ユニクロさんとはお互いに緊張感を持った中で、がっぷり四つに組んで事業を進めています。東レはユニクロさんの望む製品を作る。ユニクロさんは作ったものを確実に売る――。最初は数百万枚の規模だったものが、3年前に2800万枚になり、今年は1億枚まで拡大したのは、こうした信頼関係を積み重ねた結果です。ただ、ユニクロさんの要求は厳しいですよ(笑)。

僕はよく言うんだけど、本質的にモノを変えるためには、素材が変わらなければならない。今回のボーイング787にしても、素材が変わらなければマイナーチェンジでしかありませんでした。「素材革命」というのかな。素材には社会を変える力がある。しかも、素材革命には技術の蓄積が必要なんですよ。素材は一朝一夕ににできるわけではありません。炭素繊維にしても、ここまでに50年かかりました。水処理の逆浸透膜も40年、繊維に至っては80年以上も技術を蓄積してきました。こういった蓄積があるからこそ、お客様に対して様々な技術提案ができるわけです。


✪ 2011.10.24 (No.4)<242>
儲からない損保を変える
隅 修三(すみ・しゅうぞう)氏
[東京海上ホールディング社長]

震災からほぼ半年経って業界全体で1兆1300億円を保険金として支払いました。しかし、地震が起きた当初は一体どうしたらいいのかと一瞬途方にくれたのも事実です。我々には阪神・淡路大震災(1995年)や新潟県中越沖地震(2007年)などの経験があるので、これはケタを超える損害になると、瞬時に想像できたからです。

損保から見た地震のリスクは大きく2つあります。1つは当然ながら個人の地震災害。業界全体では個人地震保険の支払いは80万件に上りましたが、損保にとっては国の再保険制度で(我々が支払う保険金をカバーできるので)何とかなりました。2つ目は、国の再保険制度の対象ではなく各損保が独自に引き受ける企業向けの地震保険。これは民間の再保険を使うのですが、再保険会社も昨年から言うとチリ、ハイチ、ニュージーランド、中国そして日本と大地震が続いて(保険金支払いで)大きなダメージを受けています。そんなこともあり、再保険会社は日本の地震リスクに極めて慎重になっています。

消費者の行動が今、変わっている。携帯やスマホなど、顧客とのコミュニケーション、購買の手段が変化しているのです。その動きに対応して我々も新たな技術を購買の手段の中に入れていかなければならない。そして、そこで得られたものの良いところを我々の販売の柱である代理店チャネルの中に生かしていこうと思っています。

今年度の予想利益に占める比率を見ると、損保が22%、海外41%、生保30%になっています。でも生保の比率が高くなって、損保が縮小していいというわけではありませんよ。

考えてみれば保険とは何をやるビジネスでしょう。リスク分散です。いろんな種類のリスクを受け、地理的にも様々な地域のものを受けるのが分散。その延長にあるのが海外です。一方で、日本は地震、台風など自然災害の多い国。そのリスクを世界で分散していくのはもともとの私の発想でもありました。


✪ 2011.10.31 (No.5)<243>
解任劇の真相を話そう
マイケル・ウッドフォード(Mickael Woodford)氏
[オリンパス前社長]

問題として指摘したいのは、英医療機器メーカーのジャイラス買収の件だ。2008年に、オリンパスが20億ドル(当時の為替レートで約2000億円)を投じて買ったことは知っていた。私は当時から、「買収価格が異常に高い」と批判的だった。それは社内の多くの人が知っていることだ。

問題は、買収後に買収価格の3分の1に当たる6億8700万ドル(約520億円)もの手数料を財務アドバイザー(FA)に払っていたことだ。これは全く知らなかった。しかも、支払った相手は、英領ケイマン諸島にあるAXAM(アクザム)という会社などで、実態はいまだに誰も分からないという。そんなことが許されるわけがない。

9月30日の取締役会で、私は確かにCEOになった。菊川剛会長は「経営会議には、もう出席しない」と発言した。これは私がオリンパスの社内にいながら、会社を良い方向に変えるための最後の手段だった。「少し望みが出てきた」。そう思ったが、実は問題が解決するには全く向かわないことが、直後に判明する。

そしてハッと気がついた。私がCEOになっても、オリンパスの全役員は菊川会長の命令で動いている。自分で考えて、企業にとって最適な行動を取るわけではないのだ、と。


🔷 編集後記


この元記事をアメブロに投稿したのは、9年前のことです(2014-01-26 20:38:08)。

読み直してみますと、「こんなことも書いていたのだな」「この個所に関心があったのだな」ということが思い出され、当時の自分の心境に思いを馳せています。

それだけ歳をとったのだと実感しています。

編集長インタビューの記事を読み返してみると、当時の経営者の心意気・信念・余裕・揺るぎない自信といったものが伝わってきます。

月日が経ち、自分だけでなく身の回りにも、環境にも変化があります。

しかし、経営に限らず、物事の本質は変わらないものです。

今回のインタビューの中から興味深い言葉を拾い出してみます。

山中 伸弥(やまなか・しんや)氏
[京都大学iPS細胞研究所長]


の言葉から。

中村先生(中村修二氏、青色発光ダイオードの開発者、現カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授 注:藤巻)は勇気を持って、当然の権利を主張したと考えています。その彼が、今は米国で教壇に立っている。日本人としては寂しいことです。すごい技術を開発した研究者に、日本の若い人たちは学び、後に続くことができたら、どれだけ素晴らしいことか。

🔴「1人のノーベル賞受賞者がもう1人のノーベル賞受賞者について言及」

ご存じの通り、山中 伸弥氏はノーベル生理学・医学賞受賞者です。そして中村修二氏はノーベル物理学賞受賞者です。

山中氏はiPS細胞を開発しました。その後の医学の発展に大きく寄与しました。残念なことに、日本はiPS細胞の研究に予算をつけなくなりました。

こうした研究は長いスパンで考えなくてはならないのですが、日本の政治家や官僚は理解できないのでしょう。

一方、中村氏は、社会に普及しているLED(発光ダイオード)の青色発光ダイオード(青色LED)の発明者です。光の三原色は赤・緑・青(RGB)ですが、世界中の研究者にとって、LEDを完成させるために難題となったのが、青色を長時間出すことでした。それがなかなかできませんでした。

中村氏は日亜化学という会社の社員でした。中村氏が研究を続けていた当時の日亜化学の社長は中村氏に理解を示していました。その甲斐があって青色LEDの「発明」(中村氏はそう語っています)に繋がったのです。

そして、その発明は中村氏の個人の特許と認識されていました。

ところが、社長が交代すると様相が一変しました。個人の特許ではなく、会社の特許であるということにされてしまったのです。

中村氏は、青色LEDを発明するために、この世に道具がなければ自分で道具を作り、発明にこぎつけたのです。

その後、中村氏は日亜化学を相手取り、訴訟を起こしました。
第一審では、裁判所は日亜化学は中村氏に200億円(600億円の価値があると認定)を支払うように命じました。日亜化学はその判決を不服として控訴しました。

その結果、第二審では何と第一審の100分の1の2億円と認定したのです。
個人が会社という組織に敗訴したのです。上告することができなかったのです。最終的には2億円と利息が支払われただけでした。裁判費用(弁護士費用等)がかさみ、赤字になったそうです。

中村氏は心に大きな痛手を負い、こんな日本では報われないと落胆し、米国のカリフォルニア大学サンタ・バーバラ校教授となりました。頭脳流出です。日本の大学からも誘いがあったそうですが、すべて断りました。

中村氏は青色LEDに関する書籍を何冊も上梓しています。彼の生き方・考え方についても記しています。

その中で、彼が語っていた個所で思い出すところあります(概要)。
訴訟を起こしたのは、個人としてだけでなく、日本の研究者たちの地位を高めたい、個人の発明は個人のものであることを明らかにしたいという想いからだったのです。

ちなみに、中村氏がノーベル物理学賞を受賞したのはカリフォルニア大学サンタ・バーバラ校教授になったあとのことです。

尚、青色LEDの発明は、他に「名古屋大学の工学者・赤﨑勇(現 名城大学教授)と天野浩」(青色LEDの発明者にノーベル物理学賞 nature ダイジェスト)の2名を含めた3名がノーベル物理学賞受賞者となりました。

中村修二氏の特別講演


中村修二氏の著作の一部




1回の投稿ごとに1カ月分にまとめたインタビューの概要を掲載します。

2007年1月8日号からスタートし、2013年7月までの6年7カ月分のバックナンバーだけで79件あります。

途中、数件記事が抜けている個所があります。
データを消失してしまったため現時点では再現できませんが、日経ビジネス電子版では「2011年10月から最新号まで」のバックナンバーが閲覧できるようですので、抜けている個所に該当する部分が見つかれば、追記します。

⭐ 『日経ビジネス』の電子版セット(雑誌+電子版)を「らくらく購読コース」で2022年9月12日号 No.2157 から定期購読をスタートしました。


「日経ビジネス 電子版使い方ガイド」(全24ページ)を見ると
「雑誌『日経ビジネス』のバックナンバーの閲覧について」で、
閲覧できるのは2011年10月から最新号と書かれています。

そのため、2008年8月18日、25日分の記事は確認できません。
しかも紙の雑誌は、はるか昔に処分しています。


『日経ビジネス』の記事を再投稿することにした経緯

再編集して再投稿することにした理由は、次のとおりです。

自分が当時どんな記事に興味があり、どのような考え方をしていたのかを知りたいと思ったからです。

当時の自分を振り返ることで、当時と現在で考え方は変わったか否か、あるいは成長しているかを確認したいと思いました。

記事データは当然古くなっていますが、本質的な部分は必ずあるはずで、しかも普遍性があります。その個所を再度学んでみたかったのです。

さらに言えば、『日経ビジネス』のバックナンバーをご紹介することで、この記事に目を通していただいたあなたに何らかの有益なヒントを提供することができるかもしれない、と考えたからです

「私にとって、noteは大切なアーカイブ(記録保管場所)です。人生の一部と言い換えても良いもの」だからでもあります。
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