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【マキアヴェッリ語録】 第14回

マキアヴェッリ語録


🔷 塩野七生しおのななみさんの『マキアヴェッリ語録』からマキアヴェッリの言葉をご紹介します。マキアヴェッリに対する先入観が覆されることでしょう 🔷

7年前にブログで投稿した記事を再構成し、時には加筆修正して、お届けします。(2015-07-05 19:01:46 初出)


目的は手段を正当化する

 マキアヴェッリ(日本ではマキャベリと表現されることが多い)は『君主論』の著者として知られ、「マキャベリズム」が人口に膾炙しています。


 その思想を端的に表現する言葉は、「目的は手段を正当化する」です。


 目的のためならどんな手段を講じてもかまわない、と解することが多いですね。


 実は、私もこの書を読むまではそのように解釈していました。
 言葉を文脈の中で解釈せず、言葉が独り歩きすることの怖さは、風説の流布でも経験することです。


 福島第一原発事故以後、周辺にお住まいの方々は風説の流布に悩まされ続けています。拡散した誤情報はさらに誤情報を加え、拡大していきます。
 容易に訂正されることはありません。


 話しを戻しますと、マキアヴェッリの実像はどのようなものであったのか、そして「目的は手段を正当化する」と言っていることの真意は何だったのか、を知りたいと思いました。


 先入観を取り払い、大前研一さんが言う、「オールクリア(電卓のAC)」にしてマキアヴェッリの説くことに耳を傾けることにしました。


 マキアヴェッリは、1469年5月3日にイタリアのフィレンツェで生まれ、1527年6月21日に没しています。15世紀から16世紀にかけて活躍した思想家です。500年位前の人です。

 


 塩野七生しおのななみさんは、「まえがき」に代えて「読者に」で次のように記しています。塩野さんが解説ではなく、また要約でもなく、「抜粋」にした理由を説明しています。


 尚、10ページ以上にわたる説明からポイントとなる言葉を「抜粋」しました。

塩野さんが解説ではなく、また要約でもなく、「抜粋」にした理由


この『マキアヴェッリ語録』は、マキアヴェッリの思想の要約ではありません。抜粋です。
なぜ、私が、完訳ではなく、かといって要約でもなく、ましてや解説でもない、抜粋という手段を選んだのかを御説明したいと思います。

第一の理由は、次のことです。
彼が、作品を遺したということです。
マキアヴェッリにとって、書くということは、生の証あかし、であったのです。

マキアヴェッリは、単なる素材ではない。作品を遺した思想家です。つまり、彼にとっての「生の証し」は、今日まで残り、しかもただ残っただけではなく、古典という、現代でも価値をもちつづけているとされる作品の作者でもあるのです。生涯を追うだけで済まされては、当の彼自身からして、釈然としないにちがいありません。

抜粋という方法を選んだのには、「紆曲」どころではないマキアヴェッリの文体が与えてくれる快感も、味わってほしいという私の願いもあるのです。そして、エッセンスの抜粋ならば、「証例冗漫」とだけは、絶対に言われないでしょう。

しかし、彼の「生の声」をお聴かせすることに成功したとしても、それだけでは、私の目的は完全に達成されたとはいえないのです。マキアヴェッリ自身、実際に役に立つものを書くのが自分の目的だ、と言っています。
 

『マキアヴェッリ語録』 「読者に」から PP.3-6、15        

  


 お待たせしました。マキアヴェッリの名言を紹介していきます。


マキアヴェッリの名言


第1部 君主篇



一軍の指揮官は、一人であるべきである。


指揮権が複数の人間に分散しているほど、有害なことはない。

それなのに、現代(十六世紀)では、国家はこれとは反対のことを行なっている。行政面にいたるまで、複数の人間にまかせるという有様だ。

結果は、実害をともなわずにはすまない混乱である。

ゆえに、わたしは断言する。

同じ権限を与えて派遣するにしても、二人の優れた人物を派遣するよりも、一人の凡人を派遣したほうが、はるかに有益である、と。

                       
   

『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から P.132          




一度でも徹底的に侮辱したり、手ひどい仕打ちを与えたことのある者を、重要な任務につかせてはならない。


なぜならこの者は、この機に一挙に悪評を挽回ばんかいしようとしてか、あるいは、どうせ結果は悪く出ても自分の評価はこれ以上悪くなりようがないと思うかして、いちかばちかの勝負に出やすいからである。

これでは、任務を与えた者にとって、悪い結果を生むおそれが多すぎるのだ。

『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から P.133         
           
                    
                    
 


               
   


なにかをしとげたいと望む者は、それが大事業であればあるほど、自分の生きている時代と、自分がその中で働かねばならない情況を熟知し、それに合わせるようにしなければいけない。

時代と情況に合致することを怠ったり、また、生来の性格からしてどうしてもそういうことが不得手な人間は、生涯しょうがいを不幸のうちにおくらなくてはならないし、為そうと望んだことを達成できないで終わるものである。

これとは反対に、情況を知りつくし、時代の流れに乗ることのできた人は、望むことも達成できるのだ
        

『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から PP.133-134          



マキアヴェッリの語る言葉は深い

                            
🔶 マキアヴェッリの語る言葉は深い、と思います。

マキアヴェッリは人間観察に優れた人だった、
と想像します。心理学にも長けていたのでしょう。

「君主」を「リーダー」に置き換えて考えてみるとより身近に感じられるでしょう。

🔷 企業においても、指揮命令系統が複数あるために、どの指示に従うのが適切であるのか、分からないことがあります。

これはまさに、マキアヴェッリが指摘している、
「一軍の指揮官は、一人であるべきである」
という内容そのものです。

政界や官界、財界においても、それは同様です。
指揮官は一人でないとならないのです。

「共同代表」や「双頭経営」と言うと、聞こえや見栄えが良さそうですが、実態は混乱が渦巻き、いずれ空中分解する可能性が高い、と言えます。

日本維新の会も例外ではありませんでした。
橋下徹前大阪市長と石原慎太郎氏が、日本維新の会の共同代表に就任した際にも、無理だと実感しました。

一方は護憲派で、他方は改憲派で、言わば「水と油」のような存在でした。混ざり合うはずがなかったのです。

橋下、石原両氏が共同代表に就任後、日本維新の会の勢いは急速に衰えました。日本維新の会が割れてしまうのは時間の問題でした。


⭐️ キーセンテンス

「情況を知りつくし、時代の流れに乗ることのできた人は、望むことも達成できるのだ」

「時代の寵児」という言葉が、新聞や雑誌の紙面を賑わした時代がありました。数十年前のことです。

時流に乗った人物ということができましょうが、本人が本当にそうであったかどうかは、後世の人間によって評価されます。

塩野七生さんの『ローマ人の物語』を再び読み始めましたが、ローマ1000年の歴史から学ぶことが多くありそうです。

英雄たちはどのような政治を行ったのか、英雄たちはどのような生き方をしたのかを塩野さんが活写しています。



塩野七生さんと五木寛之さんの対談集
『おとな二人の午後』
(世界文化社 2000年6月10日 初版第一刷発行)
の中で、五木さんと塩野さんは次のように語って
います。歴史についての考察です。


五木

歴史はフィクションなんだと考えたほうがいいというふうに考えているんです。後年の人たちが再構築して、ありのまま構築できるってことはありえない。

その個人のキャラクターを通して、その人がつくり上げるものだから、歴史がそのままイコール事実であるっていうふうにとらえるより、歴史は物語なんだと思ったほうが正しい


塩野

私、学習院を卒業するとき、こう言われたんです、君が考えているのは歴史ではないって

いまだに覚えている。


五木

ぼくは思うけど、塩野さんが書かれているように、歴史は人間ドラマなんですよ。想像力の世界


塩野

ヨーロッパには私みたいな、小説でもなければ、歴史学でもないという分野は確実にあって、ちゃんと認められていますね

塩野七生さんと五木寛之さんの対談集 『おとな二人の午後』 PP.224-225     
           
                   

とても興味深い話ですね。
私は、歴史は勝者の側から書かれたもので、敗者の側から書かれたものは実在しても埋もれてしまっていると考えています。

○○裏面史というタイトルの書物が昔はありましたが、最近は、こうしたタイトルの書物は人気がなく売れないためなのか、見たことがありません。

裏面史の代わりに、都市伝説というまことしやかな話がトレンドになることがありますが、怪しいものです。
  

『リーダーシップの本質』

堀紘一氏の『リーダーシップの本質』と対比していただくと、興味深い事実を発見できると思います。



🔷 著者紹介

塩野七生しおのななみ<著者紹介から Wikipediaで追加>

日本の歴史作家、小説家である。名前の「七生」は、ペンネームではなく本名。

東京都立日比谷高等学校、学習院大学文学部哲学科卒業。

日比谷高時代は庄司薫、古井由吉らが同級生で、後輩に利根川進がいて親しかった。

1970年には『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。

同年から再びイタリアへ移り住む。『ローマ人の物語』にとりくむ。

2006年に『第15巻 ローマ世界の終焉』にて完結した(文庫版も2011年9月に刊行完結)。『ローマ人の物語Ⅰ』により新潮学芸賞受賞。

99年、司馬遼太郎賞。

2002年、イタリア政府より国家功労勲章を授与される。

2007年、文化功労者に選ばれる。

高校の大先輩でした。






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