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精神科医R.D.レイン論 1-② 人を人として見ること

人を人として見ること、その困難 ~ 医学的メタファー

今日では、精神科に限らず医療全体において、「患者さんを人としてみる、その人全体をみる」といったフレーズは、耳に心地よい言葉として、すでに違和感なく受け入れられている。しかし、そのフレーズはいったい何を意味しているのだろうか。それが、単に「サービス業化した医療」を意味するのではないとすれば。
「人を人として見る」ということをあまりに安易にとらえてはいないか、「人を人として見る」ことの困難をあまりに軽く見積もってはいないか、との思いもよぎる。

「人を人として見る」ということは、確かに、ごく当たり前のこと、誰しもが日常的に意識せずとも行っていることではある。しかしその一方で、人は容易に人と人との間に壁を作り、人を人と思わぬ立ち振る舞いをする。それも、往々にして、自分自身がそうしているとは気づかぬままに。
「人を人として見ない」ということは、ときには、実務の効率性におけるメリットとして、ときには、ある種の心理的な「防衛」として機能する。相手を「人として見る」ことで沸き起こってしまう自らの感情を回避するため、人は、モノのごとく・機械的に関わることがある、ということだ。あるいは、「モノ」とは言わないまでも、人にラベリングをすることで、何事かを回避しようとすることもある。

臨床場面においては、「診断」という行為が、そして、その他の医学的判断が、そのようなものとして機能してしまうことがある。レインはそれを「医学的メタファー」と表現し、次のように説明している。

第一に、そのような人の行動は、その人の“なか”で起きている病理的プロセスのサインと見なされ、それ以外のことは全て二の次と見なされる、ということである。この問題のすべてが医学的メタファーの中に包まれてしまっているのである。第二に、この医学的メタファーが、このメタファーにとりかこまれるすべての人びと、つまり医者と患者の行動を、左右することである。第三に、いったんこのメタファーを経ると、もともと組織のなかでの患者であったはずの人間が、その組織から隔離されてしまって、もはや一人の人格(person)として見られることができなくなる[…]その当然の結果として、医者の方も一人の人格として行動することが困難になる。 (『解放の弁証法』(以下DL)23)

精神科における診断は、いまなお、何らかの身体的検査によって特定されうるものではなく、逆に、身体的検査によって他の身体疾患であることを否定するとともに、特徴的な症状や経過を示唆するような情報を集めてゆくことを通じて、総合的になされるものである。それゆえ、身体的な病いの診断と比べてしまうと、精神科における診断は、まるで言葉の次元だけでなされているような印象を与えかねない。そのような性質に加え、精神疾患に対するそもそもの偏見などが相まって、精神医学的診断はメタファーのごとく独り歩きしやすい状況はある。

メタファーとは、その言葉が本来意味するものではないが、何かしら似通ったところのある物事との結びつきを生み出すものである。それゆえ、詩のように創造的なイメージを生み出すこともあれば、人を傷つけるイメージを生み出すこともあるだろう。精神医学的な診断もまた、メタファーのごとく、様々な出来事と結び付けられてゆくのだ、そのような連鎖はもはやメタファーでしかないとは意識されぬままに。あるいは、意識されないからこその、メタファーとしての機能として。

例えば、何の診断も受けていない人であれば、「個性的な振る舞い」として容認されるような行動であっても、統合失調症と診断された後では、あらゆる行動が周囲の人々から「統合失調症らしさ」とみなされたり、病状を悪化させるのではと心配されたりして、様々な制約を課されてしまう、といった具合に。先のクレペリンの講義にて供覧された患者にしても、立場や時代が違えば、十分に理解しうる反発からの振る舞いであっても、ことごとくが精神病の症状とみなされていたように。

このように、私たちのまわりには、知らず知らずのうちに、医学的メタファーによって二重三重の境界が張りめぐらされている。それによって束縛される可能性があるのは患者とされる人々だけではない。診断されていない人々も、そして、治療やケアに関わる人々も含めて、である。レインが述べるように、患者やその周りの人々が医学的メタファーに絡めとられていくほど、治療者もまた自らの振る舞いをそのメタファーへと合わせてゆかざるをえなくなり、「一人の人格として行動することが困難になる」。ますます自らの役割は固定化され、治療者自身が「モノ」「ラベル」「メタファー」のごときものとならざるをえなくなるだろう。

それゆえ、治療者はつねに忘れてはならない。「症状」や「診断」を見定めようとする医学的な眼差しそれ自体が、どれほど当の相手を束縛し傷つけうるか、そして、そのことに気づかぬがゆえに、どれほど、さらに道を誤りうるか、ということを。

端的に「人として理解する」ということは、診断のみならず、当然、治療の過程にも関わるものである。医学的メタファーに見られるような、行動を個人へと切り詰めていくことが「治療」として――心理療法なり、薬物療法における評価なりにおいて――実践されるとき、何らかの快方をもたらすどころか、閉塞や孤立、ときにはスティグマ化すらもたらすこともありうる。後の章でもふれるが、レインは治療に関しては、特定の技法を磨くよりも、「結ぼれ」から自然治癒へと導くことに腐心する人であった。そのような視点からすれば、医学的メタファーに絡めとられたままの「治療」は「自然治癒過程との接触」とは真逆のものということになるだろう。

このような医学的メタファーに取り囲まれた状況を見通すために必要となるのが、先に述べた、二つの経験的ゲシュタルトを見分けるまなざしである。そして、だからこそ、レインは最後まで繰り返し訴え続けた。「人を人として見る」という、ごくごく当たり前であるはずの――にもかかわらず、いまだ困難でもある――ことを。

彼らには本当に「治療が必要」なのだ。彼らがどのような治療を受けようとも、「われわれ」としては、「彼ら」がいかに「われわれ」と異質であろうと、われわれ自身と同じに「あくまでも人間(simply human)」として「彼ら」を扱うことを断じて忘れてはならないのである。[…]普通の精神状態と異常な精神状態との間、普通の「現実」と異常な「現実」との間に大変な差違があることは確かだ。こういう差違を私は糊塗しようとしているのでも、できるだけ見くびろうとしているのでもない。問題なのは、こういう差違がどんな違いを生じさせるのか、ということなのである。「われわれ」にとってそれはどんな違いを生むのか。われわれと彼らとの間の差違がどんな違いであるとわれわれはみなすのか。 (『レインわが半生』(以下WMF)16)

(つづく)

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