ハングル文字を読み書きできるようになるための 入門期can-do

目、耳、口、手における到達目標と発達段階チェック リスト

(支援の視点から作ったアセスメントシート)

 

1.文字習得において、目、耳、口、手という四つの身体部位で分けて考えることの意義と習得手順

 

 文字を読み書きできるようになるための基本的な手順は、目(文字を見る。視覚障碍者の場合は文字を触る。)⇒耳(発音を聞く。聴覚障碍者の場合は、口元を見る。)⇒口(発音を模倣する。)⇒手(書く。)の順序で、できるようになったほうがいい。以下では指導者の視点から、この手順を踏む大切さを述べたいと思う。

 

<目からチェックする理由>

 目からチェックする理由は、「文字を認識できない理由が、単に視力のせい」という可能性もあるからである。指導者が学習者の誤りを何度訂正しても修正できないということがあるが、「そもそも裸眼で文字がぼやけて見えていない」ということもありうる(経済的に眼鏡が変えない。眼鏡をかけたくないというこだわりがある等が背景になって目が悪いにもかかわらず、普段眼鏡をかけていないという場合もある)。また、文字は「線と線の距離を認識できること」「形状が認識できること」といった空間認識が必要になるが、脳になんらかの異常があって空間認識ができない場合も、文字の形が認識できない(ディスレクシア(難読症)などの障碍によっても文字認識は難しい)。「文字」は視覚情報に強く依存するため、視力や脳機能に問題がある場合は学習が困難になる。「文字」を扱う授業における目標は「視覚的の文字をとらえて読めること/書けること」なので、最優先的に「見ることができているか」というチェックを行う必要がある。

指導者の視点⇒「目」の身体的機能に注目すれば、「文字を見てわからない」ことを語学能力や知能のせいにしてしまう危険性を防げる。

 

<耳を2番目にチェックする理由>

 ハングル文字を読む際、文字は頭の中で一度「音」に置き換えられる。漢字は文字に意味を持たせているので、意味も頭に浮かぶかもしれないが、ハングル文字は「文字自体に意味がある文字」ではないため、読む際に、まず頭に浮かぶのは「音」である。文字に当てられた「音」が何であるかしらなければ読むことが不可能な文字である。漢字は「意味は分かるけど、読み方がわからない漢字」というのが存在するが、ハングル文字で、「意味は分かるけど、読み方がわからないハングル文字」というのはまずない。「意味は分かるけど、読み方がわからないハングル文字」があるとすれば、それはハングル文字を一音節そのままの発音を記憶し、「音素文字」ではなく「音節文字」として記憶した人であり、かなり特殊な記憶の仕方をする人だと言える。上級者になれば、文字を単語単位や文節単位で「音」に変換できるようになるので、「音素文字」を「音節文字」のようにとらえることができるのであるが、上級者に「意味は分かるけど、読み方がわからないハングル文字」はないので、「意味は分かるけど、読み方がわからないハングル文字」があるという人がいれば、文字の覚え方を見直す必要があるかもしれない(「音素文字」を最初から「音節文字」のように覚える事例は、サバン症候群患者で報告はされている。)。一般的に「音を知らなければ読めない」のだから、つまり、文字に当てられた「音」を覚えることが「読む」という行為の前に必要になる。

 また、基本的に「聞くこと」は、ある周波数を認識できることが条件である。また、ある周波数を聞き取れない場合、「聞くこと」は難しくなる。年齢によって聞き取れない周波数がでてきたり、音声言語の認識自体が難しい場合もある。スムーズに音と文字を結びつけられるのであればよいが、結び付けられない場合、音の記憶の仕方や周波数の聞き取れる領域に問題がある場合もあるので、「見れているか」の次に、「音を覚えられているか」「音を聞けているか」をチェックすることは大切である。

 

指導者の視点⇒「耳」の身体的機能に注目すれば、「聞けない」ことを語学能力や知能のせいにしてしまう危険性を防げる。

 

<口を3番目にチェックする理由>

 ハングル文字の「音」を記憶した後に、すぐ書く練習をしても良いが、文字を音声として高騰で再現する練習をしたほうが、文字と音の記憶のつながりがより強化できる。たまに、文字の音がよくわからないまま字を書いている人がいるが、それはただ単に「図形」を書き写しているにすぎない。文字を書くというのは、「文字の該当する音が頭に浮かび、その音を文字として書き表す行為」なのであって、文字の形をただマネして書く行為ではない。文字と音を記憶しておいて、頭の中に音を浮かべながら、その音に該当する文字を書けないのであれば、なおさら、「音」を再現する練習を優先させた方が良い。

 ただし、「今まで聞いたことがない音をそのまま口頭で模倣する」ことが苦手な人がいるのは確かである。このような人は、先に「書くこと」を優先しても良い。また、口頭で模倣することには、口や舌の筋肉が使われるが、そもそも韓国語を発音するために必要な口や舌の筋肉が発達していない人もいる。そのような人に、いきなりきれいな発音を求めることはできない。人によっては、舌が短いかったり(小舌帯がつよく残ってしまっている等)、口が大きく開けなかったり、または喉や鼻腔、歯茎、顎など口腔全般に何らかの異常がある人もいるかもしれない。それに人は、それぞれ骨格が違うので、指導者が理想とする発音をそもそも発音できないという人もいるかもしれない。このような話は、少しデリケートな部分も含まれるが、口頭での発音は、口や舌(強いては顔の内部、皮膚、骨)と行った身体を使う行為なので、どうしても障碍的視点は無視できない話である。よく指導者(学習者同士のこともあるが)は、「発音がきれい/じょうずだ」「発音がへただ/聴こえにくい」という指摘をしているが、「何をもって上手い下手が決まるのか」を事細かに見立てをする必要がある。この見立てができずに、口が大きく開けられない身体構造を持つ人に、「もっと口を大きく開いて」と言ったり、なんらかの原因で喉の空間を広くたもてないのに、「喉を広げて」というのは虐待に近い。指導者がもし「何をもって上手い下手が決まるのか」を判断できないまま指導しているのであれば、それは指導ではなく、ただ自分の感想を述べているか、最悪虐待をしていることを知らなければならないだろう。

 

指導者の視点⇒「口」の身体的機能に注目すれば、「発音できない」ことを語学能力や知能のせいにしてしまう危険性を防げる。

 

<手を4番目にチェックする理由>

 

 上でも述べたが、「今まで聞いたことがない音をそのまま口頭で模倣する」ことが苦手な人は、3番目に「書くこと」をしても良い。ただし、その場合であっても、できるだけ文字と音を記憶し、頭の中に音を浮かべながら、その音に該当する文字を書く練習をしなければならない。「今まで聞いたことがない音をそのまま口頭で模倣する」ことに苦手意識があったとしても、文字と音を一致させる努力は必要である。

 しかし「書くこと」で必要なのは、文字と音を一致させる努力以上に「手と指の筋肉を動かす」ことである。最近「書くこと」は手書きではなく、PCによるタイピング、スマホによる入力が主流になっているが、どちらにせよ「手と指を動かす」ということにはかわりがない。手と指を動かすということは、手と指に脳の指令が到達し、自由自在に動かせるということを意味する。よって、手と指に脳の指令が上手く伝わらないと書けない。また、手書きの場合、線と線の距離を認識できないと、線が極端に離れて、「間が空いた字」になったり、二文字が重なってしまう。形状が認識できない場合も、曲線や直線、角を付けるという文字にとって大事な要素がごちゃごちゃになって、きれいな字が書けない。手と指の筋肉、手と指と脳の連携、文字を認識する脳の機能などが正常であってはじめてきれいな字が書ける。

 このように考えると、「書くこと」は、「文字の形を記憶」したり「文字に該当する音を記憶」したりしたのち、「頭の中で音を文字に変換」「文字の線と形を認識」しながら、脳から手と指の筋肉を動かす指令を出して、最終的に書き記すという、膨大な情報を処理する過程を経ることがわかる。口頭での発音は、記憶した音を脳から取り出したのち、脳から口と舌の筋肉を動かす指令を出すだけなので、「発音すること」より「書くこと」のほうが脳に負荷がかかるということは明白である。負荷が少ないことから、負荷が多い方へ習得したがよい。これが、目⇒耳⇒口⇒手の順序で文字を習得した方が良い由縁である。

 手と指の筋肉、手と指と脳の連携、文字を認識する脳の機能に障害がある場合は、「音声入力」という手段もあるが、その場合は、目⇒耳⇒口⇒手ではなく、目⇒耳⇒口で留まることになる。ディスレクシアなど、文字認識自体に問題がある場合は、耳⇒口で学習を進めるしかない。ただし、この場合、単語の記憶や文単位での発話が難航するおそれがある。なぜなら、数十個の単語であれば、音声で記憶する事は可能かもしれないが、数百個の単語を音声でのみ保持する事はかなり難しい(できる人はいるが稀である)。韓国語は初級で2000個、中級で5000個程度の語彙習得が必要なので、そうなってくると、単語を文字として認識し、音を口頭で音を再現し、その音を文字としても書き起こせるという三つの関係で記憶を強化する必要がどうしても出てくる。特に「書いて覚える」特性を持つ人は、単語の記憶には「書くこと」が必須なため、「書くこと」は脳に負荷がかかるが、単語の記憶では逆に効率の良い行為になる。単語の習得に慣れてくると、「聞いて覚えられる」「読むだけで覚えられる」という人も中には出てくるので、単語の習得に「書くこと」が必須ではないのであるが、学習初期は、脳に負担がかかっても、「聞いたことをそのまま文字として書き起こす(ディクテーション)」を繰り返すことが望ましい。科学的な根拠はわからないが、タイピングやスマホ入力でも同じような効果が実感できるのであれば、手書きにこだわる必要はないかもしれない。 

 

指導者の視点⇒「手」の身体的機能に注目すれば、「書けない」ことを語学能力や知能のせいにしてしまう危険性を防げる。

 

 

2.支援の視点から見た指導

 

 「文字の指導」は、「学習者に未習の事柄について新たな情報を提示し、学習者が与えた情報通りに行動できているか(読めるか≒発音できるか、書けるか)をチェックし、できていれば正のフィードバックを、できていなければ負のフィードバックをする」ことであると単純に思いがちである。この場合指導者は、「できる/できいない」という審判(ジャッジ)をする存在としてだけ機能している。仮にこのような指導者を「ジャッジする指導者」と呼ぶことにする。ジャッジする指導者は、多くの場合、「なぜできるのか」「なぜできないのか」を学習者に提示することはしない。できているときは、「いいですね」「じょうずですね」「そのまま」と言い、できないときは、「〇〇じゃない」「〇〇すればいい」と言う。しかし学習者にとって一番いい指導とは、「今できているけど、このできている状態は〇〇しているからできている。〇〇しないとできなくなるから、今の感覚を覚えておくように。」と、なぜできているのか、その理由も含めて解説してもらえることだろう。できないことにたいしても、「〇〇していないから今はできていないけど、そこを〇〇のように改善するとできるようになる」というように、学習者の今の状態を把握して、「できるように導く」ことを学習者は求めているはずである。学習者は自分ができるようになるために、指導を請う。指導者がただ単にジャッジだけしていても、それは一切学習者のためにはならない。

 また、ジャッジする指導者は知らぬ間に虐待の加害者にも陥りやすい。手が不自由な人に「早く書け!」と怒鳴ったり、聴覚障碍者に「同じように言え!」と怒鳴るという指導者は稀であるが、「目に見えにくい障碍」の場合は勝手が違ってくる。舌が短かったり、微妙に指が短かったりといった人でも、「そうでない人」と同じように日常生活を送っているように見える。しかし、ある限定的な場面で、「そうでない人」にできても、舌が短かったり、微妙に指が短かい人ができないことということはある(例えば、歌やピアノ演奏)。些細な違いでしかないために本人も周囲の人も、「同じように生活できているんだから、みんな同じようにできるはず」と考えてしまいがちだが、ある限定的な場面で違いが明らかになることがある。特に外国語学習の現場において、「できない」ことは、語学能力だとか知能に問題を探してしまいがちで、指導者は些細な身体的違いに気づけず延々とジャッジし続けることになる。実は、手が不自由な人に「早く書け!」と言ったり、聴覚障碍者に「同じように言え!」と言うことと同じように、舌が短い人に「もっと、はっきり発音して!」と指導したり、微妙に指が短い人に「もっと真っすぐ字を書いて!」と発言してしまうことはありうるのである。原因を知っていて直せるならいいが、原因もわからず、「直せ」とだけ言うようなジャッジする指導者は、知らず知らずのうちに虐待をしている。

 このような虐待加害者に陥らず、支援の視点から見た指導ができるようになるために、原因がもしかしたら「空間認識のずれ」「ある特定周波数の聞きづらさ」「口や舌の筋肉が未発達」といった「目に見えにくい障碍」の可能性も考慮しなければならないだろう。支援の視点から見た指導では、「できない」を語学能力や知能のせいにせず、教室活動でも「文字を書くことが難しいなら、文字をなぞるだけの練習をする」「文字の記憶が難しいなら、文字の記憶は後回しに発音に重点を置く」「発音が難しいなら、口や舌の動かし方を確認するだけの練習をする」「文字を書く時はタイピングでも可」「音声入力も可」にでき、学習者の特性に合った指導が可能になる。ジャッジだけが指導ではない。

 

 

3.ジャッジする指導者から逃げ出すためのティップス

 

 2では主に、目、耳、口 、手という四つの身体部位で分けて考えることの大切さを「指導者」が肝に銘じておかねばならない理由について述べた。3では、学習者自らが目、耳、口 、手という四つの身体部位で分けて文字学習を考えられるポイントをまとめたい。

 まだ学習を始めたばかりの学習者が、自分を指導する者が、「ジャッジする指導者」なのか、「支援する指導者」なのかを見極めることは難しい。都市部ならばともかく、地方では指導者の選択肢がないので、「ジャッジする指導者」に見切りをつけて、他の指導者の下へ行くということも難しいだろう。となれば、自分の学習は自分で保障しなければならい。なかなか難しいことではあるが、自分の学習を自ら「ジャッジ」しないということはできるはずである。支援する指導者の視点を学習者自らもつためのポイントは以下の通りである。

 

・できる理由、できない原因を自ら考える:人は「できる」ことな、なぜできるか考えてもわからない多い。「なんだかわからないけど、できちゃうんだよね」と回答するしかないことも多いが、他人に教えてみると、なぜできるのかが自分で理解できる場合がある。また、できない原因も、なぜできないかを他人に相談してみると、その理由がわかることがある。できる理由、できない原因がはっきりしていると、学習はより強固なものになる。そのためにも、ひとりで学習するよりも、学習コミュニティーの中で教え合うということも大切である。

⇒「できる」「わかる」をより明確に自分のものにする!

 

・語学学習は「語学能力」「知能」だけでは図れないことを知る:1でも述べたように、語学学習は、脳機能、身体的機能とも密接に関わっている。「できない」と一言で言っても、脳に問題があるのか、身体に問題があるのかによって解決方法がことなる。学習時間に問題があれば、学習時間を確保するために生活習慣を変えなければならないだろう。他の事で忙しければ当然学習は進まないし、生活環境がわるくて集中した学習に適さないという場合もある。音や光に過敏すぎる体質の人は、雑音や光が強い空間で学習しても集中できないであろう。その場合自分が学習できる環境を確保する必要がある。「学習」というのは、人間の生における生活の一部なので、生活習慣、生活環境などにも大きく関与していることを忘れてはならない。

⇒「頭が悪くてできない」「意欲がわかない」以外の原因を探る!

 

・自分に合っている学習方法を知る:人は、ひとりひとり別人である。「私は〇〇で外国語ができるようになった」という言説をよく聞くが、確かにその人はその方法でできるようになったかもしれないが、他の人には異なる方法を取ったほうがいい場合がある。これは「他者と比べるて、劣等感を感じるな」という話ではなく、そもそも、あなたと私は違うという話である。ランダムに配った53枚のトランプを数秒だけ見て、順序通りに並べることができる人のように、「見て覚える力が強い人」がいれば、聞いた音と周波数の数値を言い当てる絶対音感保持者のように、「聞いて覚える力が強い人」がいる。語学学習においても、文字と意味をそのまま一致させて覚えてしまう「絵を覚えるように文字を覚える人」、聞いた発音を再現できる「発音のものまねが上手い人」という、それぞれの個性が強く出る場合がある。特殊能力では、共感覚といって、「ある音を聞くと、それにあった色が思い浮かぶ」「ある文字を見ると、ある味覚を感じる」といった人もいるようである。「苦手」よりも特異なことを見つけ、それに合わせて単語を覚えたり、文法を覚えると習得速度が早まるはずである。

⇒「苦手」よりも「得意」を伸ばす!

 

まとめると、「自分自身をできる/できないでジャッジしない」「語学学習を頭の良し悪しだけでジャッジしない」「自分と他者をジャッジしない」ということができる。「ジャッジする指導者」からどうしても逃げ出せない場合は、この三つを覚えて、自分をジャッジしないで学習を進めてほしい。

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