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「過去の遺物」をバッサリ切り捨てようとしたら、怨念になって場に残っちゃった説

以前に行政機関でよくExcelフォーマットが負の遺産として残っているという話題の記事を見かけました。その記事から感じた、超アホな妄想エッセイです。

時代にマッチしないExcelのフォーマットによってDXが妨げられている。そのセル結合マジでめんどくさい。Excelのセルを方眼紙として使ってんじゃねえよ。とかアレコレありますよね。

でも、「そんなフォーマットは、ある意味で時代の求めによって生まれてきたモノだった」ってコトが記事に書いていました。今の時代には圧倒的にマッチしない状態なのですが、当時は「必要性」によって生まれたモノだったようなのです。

今日の本題はこの話題そのものでありませんが、似たようなケースによく遭遇しますよねってコトが本題です。

過去にはとても意味のあったツールが今では逆効果しか生まないとか、過去には当たり前だった価値観が、今では嫌悪されるモノになっているとか、割と僕たちの周りにもある話題です。

さて、そんなとき僕たちはどんな態度に出るでしょう。
だいたいはバッサリと「成敗!」なスタンスじゃないでしょうか。

特に近年は価値観のシフトがめちゃくちゃ社会全体でも大きくなっていると思います。概ね、誰もが等しく「みんないい」に近づいていくためのシフトになっていると思います。それはそれでとてもステキなこと。

でもね、ちょっと「アホな妄想」をすることを許してください。

もし「価値観」に人格があったとしたら、「捨てられた価値観」は僕らのコトをどう思うんでしょうね?

つい最近まで自然に仲良くしていたのに、突然あるとき捨てられるんです。「時代が変わったんだ」とか「いまの自分が大事にするモノが変わったんだ」とか言われてもねぇ。捨てられた価値観側からすれば理解不能です。

えっ?、昨日まであんなに自然に一緒にいたのに?
えっ?、あんなに言うことを聞いてくれていたのに?
えっ?、捨てちゃうの?、ソッチの方が魅力的だからってバッサリ行っちゃうの?

ちょっと極端な妄想だとは思いますよ。誤解しないでいただきたいのですが、「絶対に変化すべきテーマ」はたくさんあるから、舵を切るのは間違ってないと思います。

でも、過去を精算しなかったがために、ある種の「怨念」が残ることもあるんじゃないでしょうか。そして、過去の遺物によって現在の進歩が妨げられているのは、実は「供養」をしていないから?とも感じるのです。

僕たちはどんどん変化しています。でも、過去の自分も懸命に生きていました。ソレは個人であっても集団であっても同じ。そして、「過去の行為に生じた想い」は、例え今から見れば過去のモノになったとしても何かしら現在に残るのだと思うのです。

だから、過去をバッサリと切り捨てようとする行為に対して、過去側は「怨念」となって抵抗する。いま過去の遺物が現在の進歩を留めようとしている現象は「怨念」を「供養」できていないがために起こっているのかもしれませんよね。

で、この状況をさらに押しとどめるのは「現在の進歩」側からすれば「過去の遺物は自主的に退場して当然!」な態度になるコトだと思うのです。オメーらはもう世の中に不要だから消えろー!!と口汚く罵られるワケです。

そんな切り捨てられ方をしたら「過去の遺物」側としても黙って退場させられたくないですよね。怨念になってでもその場に残りたいと強く感じる。丁寧に供養してくれていたら成仏していたのかもしれないのに。

もうちょい身近なテーマで例えましょうか。

あなたにはお付き合いしている人がいるとします。
あなたにとってその人といることは当たり前のことでした。
でも、あるときとてもステキな別の人が目の前に現れます。
あなたは目の前に現れた別の人とお付き合いすることに決めました。
さて、このあとどんな行動に出るでしょうか?

いま話題にしているテーマで考えると、おそらく、これまでに付き合っていた人に対してはフェードアウトをかましています。

もしかすると、相手からすれば突然連絡がつかなくなるぐらいかもしれません。ちょっと前までイチャイチャしていたのに、LINEもブロックされ、電話も通じず、挙句はストーカーとして通報されるぐらいかも。

そう、あなたは「別れ話」をしていないんです。

バッサリ切り捨てているんです。痛みを伴うと分かっていても「別れ話」さえしていれば、コジれることはなかったのかもしれません。

この妄想を現実に置き換えたとしても、具体的に「供養」や「別れ話」がどんな行為であるのかは分かりません。特に「価値観」なんて気づいたら変わっているモノに対してどう向き合ったらイイのかはなお難しい。

でも、敢えて考えてみましょうか。

例えば「今の価値観」から見て唾棄するような「過去の価値観」も、「今の価値観」に至った変化・変遷に目を向けて考えるコトかなぁとも感じます。ある種の「理解」だと思うんですよね。敬意までとは言わないまでも、「まぁ分かるわ」ぐらいの感覚かな?

そして、「当時の価値観」が「当時の社会背景」において果たしていた役割があるのであれば、その点においては一定の評価をして、それでも「今の自分の価値観に照らし合わせた決別の選択」をすることを改めて認識することでしょうか。

「現在の自分」から見ておかしなモノを全部切り捨てていくとなると、これから先の未来においても価値観や社会の変化は生まれていくので、「常に過去は否定されるべき存在」となってしまいます。そうすると、いまの自分の行為も未来の自分が否定する行為と暗に示してしまう。コレは救いがない。

だから、今から見た過去をバッサリ切り捨てるのではなく、丁寧に背景を紐解いたうえで「供養」や「別れ話」にあたる行為を探していきたい。そうすることで過去が「怨念」になることを避け「成仏」してくれるのかもしれません。

僕たちは割と「儀式」を必要としている人種だと感じています。何か企業や個人の不祥事が起こったときに「責任」をとにかく追求したがり、その行為がもたらした「結果」や未来に向けた「対策」は意識に登らないのは、僕らが過去に持っていた「切腹文化」の名残りなのかもしれません。

この文化は正直好きじゃないのですが、でも「切腹」って腹を切る側の名誉を守る儀式なんですよね。過去に敬意を払いながら、ソレでも退場いただく儀式と考えると、ここまで挙げた「供養」や「別れ話」に通じるモノがあるのかも。

ところが今の僕たちの過去との決別方法は、割と「ギロチンによる処刑」に似た方法だと思います。もうバッサリいく。しかも、その状況をエンタメ化している。だから「怨念」になっちゃうのかなぁとか、ちょっと強引な関連付けもしちゃうのです。

過去の遺物をギロチンにかけるか切腹で見送るか


「ありがとう、さようなら」
コレって芯を突いた言葉かもしれないですよね。

もちろん、今から考えれば到底「ありがとう」なんて言えない概念も沢山あると思いますよ。でもそんな過去の遺物を全部「敵」と見做すのではなく、何かしらの役割を持っていたことは理解したうえで「ありがとう、さようなら」と言えれば、未来に向けた一歩が踏み出せるんじゃないか?とか思うのです。おわり。

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