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「する」が分かれば期待が生まれ、「しない」が分かれば安心が生まれる。

「すること」から抱くことのできる印象と、「しないこと」から抱くことのできる印象って、結構ちがう。そんな最近の気づきについて。

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「この人は、こういうことはしない」という認識を、出会って間もない人に抱くことはできない。

例えるなら「相手がすること」は足し算。

目に見えるから、分かりやすい。最初から、ある程度の認識をつくることもできる。しかも、相手が「すること」をどんどん重ねていけば、情報の蓄積から精度も高まっていく。だから足し算。

一方で、「相手がしないこと」は引き算。

「しないこと」を見ることはできない。相手と長い時間に渡ってふれ合い、たくさん「相手のしたこと」を蓄積した結果、逆方向の「しないこと」がボンヤリ見えてくる。「相手のしたこと」が一定数あつまらないと引き算はできない。コミュニケーションを重ねることで、少しずつ「しないこと」の輪郭が明らかになる。

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「する」は期待を生む。「しない」は安心を生む。
「こんなことをしてくれる人なんだろう」と、自分の期待が込められる。
「こんなことはしない人だろう」と、自分がここにいられるような安心感を抱く。

期待と安心がセットになると、もっと大きな感覚につながるんだろう。この感覚をなんと言えばよいかは分からない。「信頼」なのか「心理的安全性」なのか、なんと表現すればいいのか分からない。

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「する」の認識よりも「しない」の認識は、つくりあげられる時間がかかる。でも、いまの社会は「する」を伝えることばかりに意識が向いている気もする。

「しない」にだってたくさんの意味があるんだけど、そのスローさゆえに見過ごされる。とは言え、このジワっと作り上げられていく感覚はもうちょっと大切にした方がいいんじゃないかな。

この人が「しないこと」はなんだろうと考えてみる。
聞いてしまうのは、ちょっと野暮だとも思う。
ならば、相手について考える前に、
自分が他人に「しないこと」はなんだろうと言葉にしてみる。
この言語化は、「すること」にしてもいい。


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