17塩梅

「生み出す」と「与える」の程よい塩梅が分からず、いつも探り探りな子育てライフ

こどもが持つ創造性は計り知れないものがあるから、親がアレコレと枠に嵌めた価値を与えるべきではない論と、適切な機会を与えていくことがこどもの成長に大きく寄与する論が私の脳内で綱引き大会を開催しています。

どっちかが勝つ絵面がイメージできず、永遠に綱引きしている気もします。


こどもの驚く「見立て」の能力


と、思ったのは休日にこどもが遊ぶ【お店】を作ってみたときに感じたこと。ダンボール工作を普段からこどものリクエストに応じてイロイロ作ることが多いのですが、その流れで今回は【お店】を作ってみたのです。

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ダンボール工作と名乗ってよいのかは疑わしいほどに異なる素材が使われています。よく展示会などでパネルを使う・作ることが多く、今回はその端材のドライマウントパネルを主要な部品として使いました。

そもそも、普段から私のこどもたちは【お店屋さんごっこ】で頻繁に遊んでいます。ごっこ遊びのなかではダントツの登場頻度でしょう。

私が仕事で使う電卓がいつの間にかパクられていたかと思えば「お店のレジ」として使われていたり、普段ポストに投函されているチラシの類はちぎって紙幣の代わりになっていたりします。身の回りにあるものを想定できる用途でも、想定しようがない用途でも、様々なアイテムに「見立てて」遊んでいます。

そう、こども自身は周りにあるモノを勝手に何かに見立てて遊びの道具にしてしまうのです。小さなお子さんがいる家庭だと間違いなくよく見る光景ですよね。「ああ、その道具をそんな用途で使うんだ!」と感心してしまう場面もよく見かけないでしょうか?

そんな光景を日常的に見ていたから、普段からダンボール工作でこどもの遊ぶオモチャを作っていたから、「お店」も作ってみたら喜ぶかなぁと思い立ったのです。


自分がこどもの可能性を狭めてはいけないという危機意識


実際に作ってみると、こどもたちのアガり様は凄まじい。4歳兄と2歳妹でどっちが店員役をやるかでケンカが始まるぐらい。2歳の妹もその辺りの「ごっこ遊び」がしっかりできるようになっていってるんだなぁと嬉しくなる瞬間です。

が、ちょっと自分のやっていることに引っかかりがあるのも事実。

自分自身が「何かを作る」という作業が好きなこともあって、先に挙げたようなダンボール工作を作ることもしばしば。しかし、常に付きまとう「自分がイメージできる範囲のモノをこどもたちに与えているだけ」ではないかという危惧。

先に挙げたような「こどもの想像力は天井知らず」というモノでありながら、オトナの自分がイメージできる範囲のモノを提供することの「狭さ」について考えざるを得ません。

だからなるべく制作のプロセスに「こども自身が制作に関与するプロセス」を増やそうとは思っています。今回の【お店】もこどもに絵を描いてもらう場所などを用意しましたが、それも「私が用意した」関与の余地です。

もちろん私が用意したものが、こどもの発想の「呼び水」になることもあります。一つのきっかけで世界が広がることなど日常茶飯事ですが、それでも自分の提供する「フレーム」という言葉をイメージしてしまう。 

こどもが持っている発想力には驚くほど大きなものがある、敢えてそれを自分から枷に嵌めてはしないだろうかと、今回の工作に限らず日々自問自答するのです。

しかし、こども自身の喜び様は驚くほど。このお店が出来上がったときのハシャぎ様と、どんどんお店を自分流にアレンジしていく様は見ていて気持ち良いものがあります。ダイナミックな遊び方ができるのはこういった工作の良いところで、こどもにとってはスケール感が大きく新鮮なようです。

そんな様子を見ていると「ああ、作って良かったなぁ」と素直に思いますが、でも、喜ぶからそれでいいやという思考停止もイカンなという警告を心の奥底で鳴らしているという状況なのです。

実際、この警告音は自分のなかでとても小さなボリュームです。気にしなければ耳には残らない程度の警告音。でも、どこか引っかかりも同時に覚えてしまう。


ヤワな仮説など吹っ飛ぶ、子育ての日常


「与えるか」「生み出すか」の塩梅は、常に探り探りでしかありません。

正直、只の考えすぎだ。という結論が最も納得いくモノなのかもしれません。しかし、「与えること」と「生み出すこと」はどちらにも価値がありつつ、その塩梅を適切な塩梅を探ることの難しさも同時に感じています。常に自分が「偏り」のなかに漂っていないかが気になる。

我が子には先々成長していくプロセスのなかで「自ら価値を生み出すことのできる」人間に育ってほしいという願いもある。でもまあ、それはまだ先のこととも思いながら、自分が今考えていることが将来の自分が考えていることにそのまま繋がりそうな気もして、最初に挙げた綱引きです。答えが出ない。

仮説設定をして効果検証して小さな失敗を繰り返して精度を高めていく。これは21世紀のビジネスの世界で成果を出すための方法論として広く知られた手法です。「Fail fast, Learn a lot」ってやつですね。しかし、これは子育てには当然当てはまらない。

私たちは、いや、私は「何が成功で何が失敗だったのか」をその場では判断できないのです。結局のところ、将来振り返ったときに「あの時〇〇していて良かったなぁ」と思ったり「あの時△△していれば良かったなぁ」と後悔したりする。

でも、現状に対して仮説を立てて実行していくしかない。一方で、そうだとは分かってはいるものの仮説を立てられない・・・とでも言いましょうか、仮説が揺らぎまくる日常なのです。

大切にしている「芯」みたいなモノは守っているつもりではいながらも、唐突に始まる綱引き大会@自分内運動会。そこでは仮説など台風の前のゴミ箱です。


結論は「ない」、ただ「迷う」だけ


ただ単に、こどもの遊ぶ工作を作っただけのハナシなのですが、余計なことを考えすぎなんだろうか、う~~む。とは言え、今回の工作に限らず長いこと考えていた自分の課題のようなモノです。

しかし現実には、既存の価値観から提供されるオモチャをこどもは喜びます。それも尋常でないほど。この「お店」も喜びましたが、同じように喜んだものが「仮面ライダー」。

クリスマスに長男は「仮面ライダーゼロワンのバンバン(銃的なモノ)がほしい」と常日頃から主張を繰り返していました。よって、「サンタさん来たよ~」というどこの家庭にも共通のフォーマットでそのプレゼントを渡してみたところ、「もうキミをずっと永遠に離さないよラビュー」状態です。

こどもにとっては、こちらが与えたモノも、自ら生み出したモノも、等しく新しい価値を自分に提供してくれるモノなのかもしれません。となると、オトナの価値観で「与える」or「生み出す」を区別していること自体がお門違いなのかもしれません。もう、まったく答えが出ない。今日もぐるぐるぐるぐる。

常にこうやって悩むことが真理なのかもしれません。こどもにとって何が最適なのかを日々苦悶しながら無理やりにでも仮説を出して、その結果に一喜一憂する。そんな幸福と苦行の合わせ技のなかで毎日を過ごしなさいと、そういうことなのかもしれません。

結論は何もありません。ただ言語化したかっただけ。ここまでの散文にお付き合いいただきありがとうございました。

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