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「新解釈・三國志」(その3)

「新解釈・三國志」感想その3。これで一区切りのつもりです。

今回はやや「メタ」な視点から。

三国志オタクとしての履歴が40年に達しようとしている筆者のような人間にとって、ここ10年の日本における三国志コンテンツの有り様は(かつての盛況を知っているからこそ)寂寥たるものです。冷徹に言えば、(日本に限れば)コンテンツとしての三国志は死に絶えようとしているのかも知れない。

しかし、三国志の愛好者としてその状況は耐え難い。そんな中で「新解釈・三國志」の出来は、この上ない福音でした(福音にしなければいけない、というのが正確なところですが)。

商業映画として作られる以上、後述するように、作品として「限界」があるのは見る前から判っていることです。しかし、三国志の名称のみを知るような(あるいはまったく知らないような)方に対して、三国志の存在を知らしめる「花火」となる可能性は十分に持っています。三国志オタクとして、その可能性を潰すようなマネだけは決してするまい、という妙な悲愴感を持って、制作を知ってからの約1年を過ごして来ました。

上映時間がだいたい120分という「制約」があるので、三国志というのはそもそも商業映画には向かない題材です。ストーリーをそれなりに辿ろうと思えば、どうやってもダイジェストにしかならないし、かと言って、ある挿話に特化してしまうと恐らく「ビジネス」にならない。

何故「ビジネス」にならないかと言えば、出てくるキャラクターが極端に少なくなるからです。

もちろん三国志の物語には厖大な数のキャラクターが出てきますが、それは約100年の歴史を基盤とした「大長篇」であるがゆえです。この「歴史を基盤とした」が曲者で、主要人物が一堂に会することを阻碍する「壁」になります。

例えば、「虎牢関三戦呂布」に、孔明を何の説明もなく登場させることは不可能です。「三戦呂布」そのものは「架空」の挿話ですが、初平元年(190)の事件として設定されていることは確定しており、孔明はこの時10歳です。これはナンボ何でも絡ませづらい。

もう少し言えば、董卓が死んだ年で12歳、呂布が死んだ年で18歳ですから、よほど上手く設定を作らない限り、孔明を董卓や呂布(や貂蟬)と共演させることは不可能。つまり、呂布や董卓の絡んだストーリーを丁寧に作ろうと思えば孔明は出て来ないし、孔明が絡んだストーリーには呂布や董卓は出る余地がない。

三国志を知る人ほど、孔明の出て来ない三国志、あるいは董卓や呂布の出て来ない三国志が魅力に缺けることは理解されると思います(商業コンテンツとして、三国志を題材としたものが成功するためにはキャラクターの重視が必要、という指摘はこちら↓↓↓)。


多くのキャラクターをドラマ性を担保したシナリオの中に登場させるためには「連続ドラマ」が最適解なのはほぼ自明です。しかし、現在の日本で、CCTV版「三国」(全95話)のような大長篇ドラマを作ることは、商業映画を1本作るよりもハードルがはるかに高いのもまた自明。

商業映画1本で「花火」となるような三国志作品を作るのであれば、「新解釈・三國志」のようなあり方、つまり多くの有名俳優が三国志の人物を演ずるダイジェスト版が現状での最適解でしょう。

素人考えですが、有名俳優を多数起用する場合、個々の俳優の拘束時間が短いほど、色々な意味でのコストは下がるのだと思います。そのような眼で「新解釈・三國志」を見ると、かなり楽しめると思います。

あまり細かく書くとネタバレになりそうなので、極力抑えめに書くと、

・劉備(大泉洋)と曹操(小栗旬)と呂布(城田優)は同じ現場にいたことはなさそう
・劉備と周瑜(賀来賢人)が顔合わせるのも1回だけ?
・同陣営のはずの諸葛亮(ムロツヨシ)と趙雲(岩田剛典)もほとんど会ってない?
・放浪しまくっていたはずの劉備軍の居城(?)が常に一緒

等々。

邪道の極みみたいな鑑賞の仕方ではありますが、気になった方は劇場へ是非!

もちろんネガティブに評価せざるを得ないところもあるのですが、それは誰も読まないであろう有料記事にしようかと……(苦笑)


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