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事変勃発・Bちゃんの入院

 さて、ことの起こりは2010年の10月のこと。

 実家のGちゃん(父83歳)Bちゃん(母87歳)が救急車に乗って病院へ運ばれていったと、GBのご近所さんからわたしのもとへ電話があった。

 とるものもとりあえず車で三十分の市立病院へかけつけた。
ERでGちゃんを見つけ、状況を聞くと、Bちゃんはここ三日ほど腹痛を訴えていたという。

 じつはBちゃんは日頃から水分をとらず、おなかがスッキリしない傾向があった。 若い頃からしばしばきっついおベンピ様にたたられていて、小学生だった私は近所の薬局へイチジクさんを買いに走らされたものである。

 自分のだと思われるとハズカシイので、
「おかあちゃんのだから」
 わざわざ 薬屋さんに言ったりした。

 あとで聞いたところ、Bちゃんも同じように、ハズカシイッと思っていたらしく、「子供って便秘しやすいのよねえ」
と店員さんに言っていたらしい。

 閑話休題。
病院のERの待合室でGちゃんとの会話。
緊急搬送の一か月前にも、じつはBちゃんは胃腸専門の病院へ、腸を浣してもらいに行ったばかりであった。なので、
「バーサン今度もたぶんベンビだぁ」
というのがGちゃんの見立てだった。
「救急車に乗るようなことになる前に、何故近所の病院へ行かなかったの?」と聞くと、
「保険証がなかった。診察券もなかった」Gちゃんは言う。
Bちゃんは認知症がかなりススんでいて、こまごましたものを片っ端から無くしてしまうのだ。
同様にGちゃんもカルーく認知症ではあった。

しかしGちゃんの性分はけっこう激烈で、Bちゃんの認知症を「許せない」のである。そのために腹痛で苦しむBちゃんに、二日間にわたって、
「保険証をなくしたおめーが悪い」
「ちっとは痛い目に遭って反省しやがれ」
罵倒し続けていたら、三日目にBちゃんが動かなくなった、だから救急車を呼んだ。

「まったく人騒がせなバーサンだ」
Gちゃんはプリプリして待合室で怒り続けていた。
Gちゃんのこの苛烈さは、認知症の初期症状の「怒りっぽさ」ではなく、もともとの性格である。

むかーし大学に行きたいと言い出した私に向かって、
「オンナの分際でこのバカったれが!」
激怒して、椅子で殴ってきたことがあった。
その椅子は今でも実家の台所にあって、かなしく汚れ果てている。
椅子もきっとあの折りには、「鈍器としてではなく椅子として扱ってほしい」と思ったことであろう……。

 再び閑話休題。
Bちゃんは実際のところ、呼吸も心臓も一度は止まったそうである。
ERの外科のお医者さんが、懸命に手当を施してくださって、一命はとりとめた。

「手を握って話しかけると頷いてくれますよ」
外科医さんがベッド脇でそう言ってくださった。
その外科医さんの前でGちゃんは、
「バーサン、とうとうくたばりやがったか、ハッッハッハ!」
私は無言でGちゃんのつま先を思いっきり踏みつけた。

Bちゃんは危険な状態のまま、それでも生き返ったということで、検査をした。
結果。裂けていた。
Bちゃんの腸は内容物の多さに耐えきれず、出口に近いあたりで大きく切れてしまい、お腹のなかがフンだらけになってしまったのだった。

Bちゃんをどうするか。つまり、手術をするかしないかという問いが、外科医さんからあった。

しなければ当然「あかーん」である。
手術をしてもかなりの確率で「……あかんかも」。

おおざっぱに言うと、そういう感じの容態だった。

消化器官というのは入り口から出口まで、『内なる外』というべきもので、胃の中身、腸の中身は管から出ちゃうと、バイキンをばらまき、命にかかわる感染を引き起こすそうである。
ゆえに、Bちゃんのように腹腔内に、モノが広範にばらまかれてしまうと、かなりヤバイ。体力がなければ手術そのものに耐えられない。

しかも緊急搬送された直後、心臓も呼吸も止まったから、たとえ手術が成功して万が一蘇生しても、脳と内臓のダメージが大きければ、術後に「あかーん」という可能性は大きく、植物状態も覚悟せねばならない。

「どうしますか?」
お医者さんは問うた。
Gちゃんは即答した。
「手術してください」

このときのGちゃんの態度を横から見ていて、「投げたなGちゃん」と思った。
愛ゆえの即答ではない。投げ出しはGちゃんの得意技である。

Gちゃんは自分が何かを引き受ける、ということが苦手つうか、大嫌いなヒトである。 自分の負担になるようなことはまず引き受けない。
自分が決断しなければいけないような立場からは、必ず逃げ出す。
そこにいっさいの迷いはない。
愛にかまけて行動するというようなことは、皆無なおヒトなんである。

これを家族は「マルはげの丸投げ」と名付け呼んでいる(Gちゃんはほぼ、ツルツル頭である)。
性格が悪いのではない、根が『弱い』のだ。
Gちゃんの丸投げはいわば、自己保存のための譲れない策なんである。
この場合、Bちゃんの生死に関して、「自分が決める」状況から、Gちゃんは逃げ出したかったに違いない。

手術がうまくいくかいかないか、なんてことは、Gちゃんの関心の外である。
Bちゃんの今後がどうであれ、

「手術するのは医者だから」
「治療するのは病院だから」
「自分は何もしなくていい」
とGちゃんは判断したのだった。

Gちゃんの心の中ではおそらく、
「病気のことは病院に丸投げ」
「それ以後のことはムスメに丸投げ」
「俺は関わらない、それが楽、ヨシという安堵感があったと、私は推測した。

 Gちゃんの心の内はともかくとして、外科医さんは、
「わかりました。できる限りのことはしてみましょう」
力強く宣言なすって、手術室へ入っていった。

ちょっと怖いのは、この場合、Bちゃんが死亡すると、Gちゃんと私が『遺棄』か何かでなんらかの罰をくらう恐れがある。ということだ。
Gちゃんは認知症だから執行猶予かもしれないが、離れて暮らすムスメ(わたし)のほうは、保護責任遺棄の疑い(?)とかなんとかで、下手をすれば有罪かもしれない。
非同居介護の家族はそのあたりも心配だったりする。

長い長い手術であった。
朝八時から病院に来ていたため、腹が減ったGちゃんは、
「オメエちょっとどっか行ってメシ買ってこいよ」
それが二度あって、夕方に至り、六時間後。Bちゃんは手術室から出てきた。
そのまま集中治療室へ運ばれていった。

「執刀医の説明がありますので、一時間ほど待っていてください」
と言われ、私だけが残った。Gちゃんは、
「もう、ここにいたってしょうがねえんだろ? 俺は帰るから」
駆けつけてきてくれた親戚の車で、先に帰宅していった。

集中治療室で、Bちゃんは目を閉じて横たわっている。
何を示すグラフなのか、画面に取り囲まれ、呼吸器その他のたくさんの管を体につけられていた。
取りのけた腸の代わりに新しく肛門もつけてもらったそうである。

その後、医師から説明があり、手術の詳しい内容と「予断を許さない」旨、聞き終えてから、次に看護師さんとの面談があった。

 入院と治療に必要な聞き取りは毎度のことである。Bちゃんが最初に大病をして入院してから、入院退院の繰り返しで四十年。病歴と現状と薬の説明は手慣れている私であったりする。何種類かの書類に記入をすませ、Gちゃんの了解と印鑑が必要だったので、実家に向かった。

「まーだなんかあンのけよ?」
Gちゃんは迷惑そうだった。
「メシ買ってきてくれよ」
というので、近所の持ち帰りお弁当店さんから親子丼を買って持って行くと、
「なんだよ、◯◯かよ。けっ、不味いもん買ってきやがって」
はいはい、ごめんよ。こういうときだから我慢して。となだめておいて、ハンコを借りて再び病院へ行き、手続きをすべて終えてもう一度Gちゃんの家へ向かった。

実家に電気はついていなかった。呼んでも返事はない。風呂かと思って裏へ回ってみたが、やはり真っ暗である。

Gちゃんは寝てしまったようだった。疲れて寝た、というのではない。九時だから、いつものように寝た。のである。

何があっても寝るときは寝る。いかにもGちゃんらしい。ちょっと安心した。めげない気持ちは大切なのだ。

帰路ハンドルを握りつつ考えた。

さあ、戦(介護)が始まるぞ。孤軍なれども起つべき時が来たのだ。

 えいえいお~。

(続く)


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