Gよりメロン・夜間徘徊
Gちゃんが入院して一週間が過ぎたころ、Bちゃんの夜間攻撃は相変わらずであったが、昼間は一転、穏やかな日が続いていた。
Bちゃんの好きなメロンを台所で用意していたとき、入院中のGちゃんから、思いがけず電話がかかってきた。
『退院、遅れるからよ』
前置き抜き即本題。Gちゃんの癖である。
「いつ退院するの?」
『そんなこと俺にわかるか、このバカッ!』
いきなりの怒声である。
「いつ退院するのかわからないと迎えに行けないでしょうが」
『オメエに来いたあ、言ってねえよ!』
「ふーん。じゃ一人で帰ってきな」
Gちゃんは沈黙した。
『なんだ……バーサンじゃねえのかよう。オメエそこで何してんだ』
「メロン剥いてる」
『けっ、贅沢しやがって』
どうやらGちゃんは、電話に出たのが私だと気づかずに、いつもの調子で怒鳴ったものらしい。
『俺が入院してるからって、いい気になってバーサンを甘やかすんじゃねえよ』
「こっちに電話しても、Bちゃんは内容を覚えられないからね。この次は私に電話して」
『けっ、オメエの番号なんか俺は知らねえよ』
嘘つけタコ頭。
「私の番号を書いた紙、Gちゃんの財布にテレカと一緒に入れてあるでしょ」
妙な沈黙があった。
『おめえ、いつこんな紙、入れやがった』
「入院したとき」
『おっそろしいヤツだな。人の財布、勝手に開けたのか』
誰が好きこのんで開けますかいな。
「Gちゃんの目の前で、ここに入れとくよって、断ってから入れました」
『俺は知らないね』
「知らないんじゃなくて、忘れたんじゃないんですかあ」
『バーカ、バーサンじゃあるまいし』
壺ごとティラノに食わせたいタコナンバーワン。である。
「とにかく連絡は私にして」
『ダメだ』
「なんで」
『見えねえ』
「看護師さんに紙を見せて、ここへかけたいから、ボタン押してくださいって頼めばいいんじゃん」
妙な沈黙パートⅡ、である。
『看護師なんか、いねえよ』
つまんない嘘言って……。
看護師さんに頼みごとをする、その程度のことがそんなに怖いか、意気地なしめ。
「とにかく電話は私にかけて。わかった?」
『バーサンめ、ホントに役立たずだったらありゃしねえ』
「連絡がなけりゃ、私は迎えに行かないよ。残りの人生、病院で過ごす?」
奇妙な沈黙パートⅢときた。
「で? 退院が遅れる理由は何」
『手術が遅れてるだ』
「手術はいつ?」
『検査次第だな……医者は来週とか言ってる』
前回は術後三週間で退院した。となると、
「退院は早くても八月末かな」
『たぶんな』
結びの言葉はなく、唐突に電話が切れる。
「Bちゃん、Gちゃんから電話だったよ」
「えっ、なんて?」
「来週、手術なんだって」
「あらそう」
「だから、退院も一週間、遅れるみたいだよ。早ければ月末に……」
突如、Bちゃんの目が、くわーっと大きくなった。
「バカ言うんじゃないよ!」
イキナリの怒声は夫唱婦随か。
「アタシはどうなるのよ! え? ひとりで待ってるこのアタシは!」
怒りで我を忘れると、何を言っても言葉はBちゃんに届かない。
しかたがないので、私は黙っている。
Bちゃんは憤然と(でもゆっくりと)立ち上がり、居間を出ようとした。
すぐに戻ってきて、「財布、財布」と言う。
「Bちゃん、どこに行くの?」
「あの人のとこに行くんだよ。決まってるじゃないの」
「遠いよ?」
「それがなんだって言うの! アタシはね、言ってやりますよ。ええ、そうよ、人をバカにするのもいい加減にしろ、ってね」
私もバッグを持って立ち上がった。
「じゃ、駅まで送っていくよ」
「えっ……そうお? 悪いわね」
「うん、いいんだよ。Bちゃん、傘持って行こう。外、雨だよ」
「そうね、そうしよう」
このあたり、素直なBちゃんなんである。Bちゃんを乗せて、車は走り出した。
「Bちゃん、新幹線がいい?」
「そうしてちょうだい。まったく、あの人ったら」
「うん。ひどいよね」
「そうよ、ひどいわよ!」
怒りは続くよどこまでも。
「じゃあね。駅に着いたら、まず切符を買うんだよ」
運転しながらゆっくりと説明する。
「切符ね。わかった……切符ってどうやって買うの?」
じつはBちゃんは生まれてこのかた、自分で切符を買ったことがない。
GちゃんがBちゃんを一人で外へ出さなかったのだ。
だから切符の買い方をBちゃんは知らない。
Bちゃんが乗りこなせるのは市内バスだけである。それも十年以上前のことで、今はおそらくバスにもひとりでは乗れない。
「自動券売機の前に行って、画面を見て行き先を選んで、一万円札を入れて」
「一万円……」
Bちゃんは身じろぎし、財布を開ける音が後部座席から聞こえてくる。
Bちゃんの怒りは見る間にしぼみ、
「アタシにできるかしら」
声が気弱になる。
「切符の次は改札だよ。機械の改札を通るとき、手前で切符を機械に入れて、ちょっと歩くとさっき入れた切符が機械から出てくるからね。それ、持っていくんだよ」
「なんだか……難しいんだねえ」
「大丈夫。できるよ」
「そうね。ねえLちゃん、アタシ達、どこへ行くの?」
「私は行かないよ。Bちゃん、Gちゃんに言いたいことがあるんじゃないの?」
「ああ、そうだった! あの人にひとこと言ってやるんだったわ!」
さて、駅に着いたものの、駅舎を見るとBちゃんの怒りはぺちゃんこになり、何も言えなくなってしまった。
「駅だよ、Bちゃん」
「電車は……わからないからやめるわ」
「そうか。電車をやめてGちゃんの病院までタクシーに乗っていく?」
「えっ……だって……お金、かかるじゃないの」
「そうだね」
「いくらくらい、かかるのかしら」
「往復で十四万」
Bちゃんは絶句した。
「やめるわ。バカバカしい」
「じゃ、うちに帰ってメロン食べようよ」
「そうね、そうするわ」
とまあ、もくろみ通り怒りは収まって千葉行きは中止となり、帰宅することができた。
そのころにはBちゃんは自分が何故怒ったのか、忘れてしまっていた。
こんな具合に騙し騙しでもいい、あと一か月、Bちゃんに生き抜いてもらわないと。
Bちゃんを家へ送り届け、あとはヘルパーさんに託して自分の家に戻り、深夜の電話攻勢に備えて手早く家事をやっつけた。
このころ私の家事はやっつけ以下の状態となっていた。
調理は半分以上、暖めるだけお急ぎメニュー。
掃除もホコリとりのみのクイックルワイパー。
洗濯物は乾燥機行き。
乾いたそばからハンガー吊り。
入浴時は風呂場の扉の前に受話器を置いて、カラスも負ける時短浴。
かつて複数執筆でフル稼働だったときでさえ、ここまで特急家事ではなかったかもしれない。
さあ準備はできたとばかり、徳川家康を読みながらBちゃんの電話を待った。
ところがどうしたわけか九時を過ぎても、怒りの定期便がかかってこない。
昼間、十分に発散して、今日は怒らないのかな? どうなのかな?
よくわからなかった。
十二時まで待ったが電話はかかってこない。そういうことならと、布団に入ったとたんに電話が鳴った。
『Lちゃん? A島だけど』
かけてきたのはGBの家のご近所さんだった。
「あっ……A島さんのおばさん?」
ドキッとした。
『ごめんね。こんな時間に』
「あ、いえ、それは平気。おばさん、Bちゃんが、何か?」
うん、それがねえ、とA島さんは言いにくそうに言葉を途切らせた。
Bちゃん本人からではなく、ご近所さんからしかもこの深夜に電話だ。
Bちゃんに何があったのだろう?
『あのさ、あんたのお母さん、ずぶ濡れでうちに来てさあ』
「え……」
『泣いてて、何言ってるのか、わかんなかったんだけど。まあ、とにかく着替えてと、家へ連れて行ったのさ。それでね』
「はい」
『お父さんが夕方帰ってきたって言うのさ。あんたとこ、お父さん、入院してたよね?』
「そう、まだ○○県に」
『だから私もそう思って、勘違いしたんじゃないのって、言ってはみたさ』
しかしBちゃんは、今日の夕方Gちゃんが帰ってきたと言い張ったそうである。
「おばさん、すいません。ご迷惑かけて」
『いいのさ、近所だもの。だけどね』
夕方いたはずのGちゃんが、夜になっていなくなったと思ったBちゃんは、家の外へ探しに出た。
A島さんの家へ行く前、雨の中、傘もささずにGちゃんを探して、しかもパジャマ姿で、歩き回っていたらしい。
『なんか、河川敷も探した、言ってたよ』
明かりひとつない河川敷で雨に打たれながら、Gちゃんを探していたんだ、Bちゃん。
『そいでまあ、探したけど見つからなかったさ。ご近所、一軒一軒、うちの人、来てませんかって聞いて回ってたみたい』
なんてこった……。夜中のことなので、応対しない家もあっただろう。
A島さんはすでに就寝されていたけれども、Bちゃんの様子を見かねて家まで送っていき、タンスから着替えを出して、なんとか着替えさせ、ついさっきご自宅へ戻られたのだった。
「どうもすみません、おばさん……」
『Lちゃんが毎日、来てるなーって、それは車見て知ってたさ。アンタも大変だろうけど、こういうことがあったって一応、教えておくよ』
おやすみ、と言ってA島さんは電話を終えた。
電話のあとで私は車を飛ばして実家へ行ってみた。
深夜のこととて疾走十五分、普段の半分ほどの時間でBちゃんの家まで行ける。
GBの家の明かりは消えていた。合い鍵を持っているので、そうっと玄関を開けて中の様子をうかがう。Bちゃんは自分の布団で眠っていた。
寝息は静かで、どうやら熟睡の様子だ。
台所のテーブルにウイスキーの瓶と、空っぽのグラスが一個。
そっか、酒飲んで勢いでいっきに寝たか。
廊下の隅にビニール袋があり、中にはBちゃんの服が入れられていた。
A島さんの言葉通りずぶ濡れである。
物音を立てないよう、気をつけながら家から出て車に乗った。
うかつだった、と、思い知った。
BちゃんはGちゃんに『会わなくちゃ』そして『出かけなくちゃ』という気持ちがあまりに強すぎて、家から出てしまったのだ。
昼間、私と一緒に駅まで行ったことは、もう覚えていないだろう。
だが、何かしら『家の外』に自分の求めるものがあり、それは『あの人』と強く結びついていて『探さねば』という意識のみが、はっきりと強く残ったのかもしれない。
Bちゃんは今まで怒りっぽいこともあったし、もの忘れももちろんあった。
だが『お父さんが夕方帰ってきた』というような作話(?)あるいはせん妄(?)の症状を見せたことはなかった。
この数日の夜間の激しい怒りがBちゃんの何かを壊してしまったのか。
そして私がBちゃんをなだめるつもりで、駅まで連れていったことは、じつは大失敗だったのではないか……。
しかし悔やんでも何も変えられない。
明日の夜もBちゃんが今日と同じように夜間に出歩いた場合、事故、事件、その他の不安材料からBちゃんを守れるか。
明日だけでなくその後も二十四時間×一か月、兵力は一……。
『あなたが倒れたら全員、倒れちゃう。無理しないで』
お医者さんの言葉が思い出された。
私ひとりでは無理だ。初めてそう思った。
深夜徘徊は通い介護の限界を超えている。
Bちゃんの望みは『家にいて』『Gちゃんと一緒』『家事は自分で』これはもう全滅である。ならば私がすべきことはおのずと決まってくる。
明日、朝一番でケアマネージャーに相談し、Bちゃんを受け入れてくれる施設を探そう。
施設が見つからなかったら、紹介状をもらって病院へ入院させよう。
病院が一杯だったら自分の足で施設を回って、直ちに入れる施設を探そう、そう考えた。
夜討ち朝駆け介護は戦。戦の前に十全な調査。
帰宅した私はパソコンの電源を入れ、インターネットで調査を開始した。
GBの近隣の介護施設、大手から小規模のものまで。
高齢者受け入れ可能の病院、精神病院から高齢者専門病院。
認知症専門医のいる病院、入院待機・入所待機人数の把握。
それらの施設入所に必要な準備と手続きその他の調査……。
調べながら考えた。
たとえショートステイでも自宅を離れるとなれば、Bちゃんが激しく抵抗するであろうことはわかっていた。
だから嘘ついてでも騙してでも素早く正確にステイ先に、有無を言わさず押し込まねばならない。
一度でも『連れ込み損じ』たらアウトだ。二度目はだませない。
認知症でも体格は私よりいいし、体重なんか二十キロも多い。
力ずくで引きずっていくことはできない。
知恵を使って施設まで誘い込み、施設内に入ったら出口をふさぐ。
お年寄りが自ままに出入りできないシステムの施設でないといけない。
そして、一度でも騙したら、Bちゃんの私への信頼もそれっきり……になるかもしれない。
それでも、やらなければ。今はBちゃんの身柄の安全が他の何よりも優先。
迷いは棄てるんだ。自分に言い聞かせながら調査を続けた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?